火の発見とエネルギー革命、歴史を変えたビール・ワイン・蒸留酒、金・銀への欲望が世界をグローバル化した、石油に浮かぶ文明、ドラッグの魔力、化学兵器と核兵器…。化学は人類を大きく動かしている――。化学という学問の知的探求の営みを伝えると同時に、人間の夢や欲望を形にしてきた「化学」の実学として面白さを、著者の親切な文章と、図解、イラストも用いながら、やわらかく読者に届ける、白熱のサイエンスエンターテイメント『世界史は化学でできている』が発刊された。
池谷裕二氏(脳研究者、東京大学教授)「こんなに楽しい化学の本は初めてだ。スケールが大きいのにとても身近。現実的だけど神秘的。文理が融合された多面的な“化学”に魅了されっぱなしだ」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。
● コロンブスの大航海の原動力
大航海時代とは、十五~十七世紀にかけて、ヨーロッパ人が航海・探検によってインド洋や大西洋地域へ乗り出した時代だ。ポルトガルとスペインが切り開き、オランダ、イギリスが続いた。バルトロメウ・ディアス(一四五〇頃~一五〇〇)の喜望峰回航、ヴァスコ・ダ・ガマ(一四六〇頃~一五二四)のインド航路開拓、クリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達、フェルディナンド・マゼラン(一四八〇~一五二一)の世界周航などが行われた。
当時のヨーロッパでは、日本(ジパング)は黄金の国とみなされていた。情報源は、マルコ・ポーロ(一二五四~一三二四)の『世界の記述(東方見聞録)』(一二九九年)である。そこには、「ジパングは東海にある大きな島で……黄金が想像できぬほど豊富なのだ。……支配者の宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、宮殿内の道路や床は指二本分の純金の板を敷き詰めている」などと書かれていた。
マルコ・ポーロは、イタリア・ベネチア出身で、父・叔父に従って一二七一年に出発し、陸路で中央アジアを経て、一二七五年、大都(元の首都。北京の前身)に到着した。以後十七年間、元の皇帝フビライに仕えた。
ベネチアに帰国したマルコは、ベネチアとジェノヴァとの戦いに参加するが捕虜になってしまう。その獄中で口述したのが『世界の記述(東方見聞録)』なのだ。彼は十三世紀の中央アジア・中国・帰路の南海航路(東南アジア、ベンガル湾、南インド、アラビア半島など)を詳細に記述し、伝聞でジパングも紹介した。
マルコはジパングに行っていないが、まったくのつくり話とも言えない。七四九年、聖武天皇の時代、奈良東大寺大仏の金めっきのために陸奥(宮城県)の国から砂金が献上されたと『続日本紀』にある。その後、奥州(東北地方)の金は、十二世紀には奥州藤原三代の百年の繁栄を支えた。その産金総量は当時世界でも有数の一〇トンあまりに達した。
この時代の中国は、経済が空前の繁栄をみた宋の時代である。「日宋貿易」の決済に日本は砂金をふんだんに用いていたので、当時の中国人は、日本にやや過大な「金の島」のイメージを持ったのかもしれない。おそらく、中国人が持つイメージがマルコにも伝えられたのだろう。そして、「黄金の宮殿」は、中尊寺金色堂(一一二四年建立)の可能性がある。
コロンブスは大航海に出発する前、マルコの『世界の記述(東方見聞録)』を熟読し、そのなかの黄金の国ジパングの記述の部分には何百ヵ所ものメモを書き記していた。
一五〇三年、コロンブスがスペイン国王にあてた報告書には、「金はもっとも価値あるものであり、金こそ宝であります。これを持っている者は、この世で欲することは何でもでき、天国へ魂を送り込むことができるような地位にさえ達しうるのであります」とあった。
コロンブスは大航海で見つけたエスパニョーラ島(ハイチ島)をジパングと断定した。これは、黄金の飾りを身につけた島民が、金の産地を「シバオ」と発音したのが誤解のもとだった。コロンブスが信じた地図には、カナリア諸島と同緯度の西方に「ジパング」が描き込まれていたので、彼は自分がアメリカ大陸に到達したなどとは露ほどにも思わなかったに違いない。
そして、コロンブスはエスパニョーラ島で金と香料を求めた。しかし、香料は見つからず、金の産出もわずかであった。彼は先住民を虐殺しまくり、奴隷狩りに狂奔した……。
十五世紀までの世界史の舞台は、地中海から西アジア、インド、中国に至る陸の帯状の地域に集中していた。それを大航海時代が大きく変えて、海を中心とする世界史へと大転換したと言えよう。
コロンブスは実際の「金の島」ジパングに到達しなかったが、大航海時代の原動力は金への欲望だったことは確かだ。コロンブスを支援したスペイン国王も、権力の基礎となる官僚や常備軍を維持する財源を必要としていたから、富(黄金)を求めて大航海を支援・推進したのである。
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