【元プロ野球選手の10年 東日本大震災】白球追う楽しさ支え恩返し 岩手県久慈市の中学校教諭・三浦翔太さん(31) – 産経ニュース

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プロ野球ソフトバンク在籍時に着用していたユニホームを持つ三浦翔太さん=岩手県久慈市(萩原悠久人撮影)
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 「かみそりスライダー、頼むよ!」

 岩手県久慈市の久慈中学校。グラウンドの雪も解けた2月下旬、投球練習中の部員に野球漫画に出てくるような球を求めると、周囲に笑い声が広がった。投手として3年間のプロ生活を経験した異色の教諭。指導の根っこには「恩返し」の思いがある。

◆故郷・大槌の惨状

 岩手大3年だった平成23年3月11日。盛岡市内の同大野球部グラウンドで揺れに見舞われた。体がよろめき、防球ネットの支柱がギシギシと音を立てた。携帯電話のワンセグ放送には「故郷」の惨状が映し出されていた。6歳まで過ごした同県大槌町だった。

 三陸沿岸、太平洋に臨む町を高さ10メートルを超える大津波が襲った。被災地の首長としては唯一、当時の町長が犠牲になるなど、死者・行方不明者は1200人以上にのぼった。

 震災2カ月後に訪れたとき、かつての自宅や通っていた保育園は跡形もなくなっていた。励まそうと立ち寄った旧知の夫婦宅で、意外な言葉をかけられた。

 「調子、よくないの?」

 震災翌月に開幕した大学生活最後のリーグ戦。プロ入りへ活躍は必須だったが、調整不足から、先発した4試合全てで黒星を喫していた。

 自分と違い、震災で親戚ら大切な人を失っていた夫婦。そんな中でも、新聞で試合結果を知り、気にかけてくれた。「『翔太なら大丈夫だ』と。あれで吹っ切れた」。翌週から勝利を重ね、最終的にリーグ新記録となる通算35勝を挙げた。

 身長177センチ、体重70キロ、直球も最速135キロ程度と「標準以下」。それでも打者がタイミングを取りづらいと高校時代から取り入れたアンダースローや、70試合超の登板試合数が物語る持久力が、プロ野球ソフトバンクの目にとまった。

 育成枠ながら、東北の国公立大野球部からは史上初めてのドラフト指名で入団。幼いころからの夢をつかんだ。しかし、やはり厳しい世界だった。

 1年目は2軍や3軍で登板を重ねたが、終盤に右肘を手術。2年目はリハビリに費やした。3年目は手応えも感じたが、オフに「戦力外」を告げられた。

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