(11)製紙工場の倉庫に引っ越し – 熊本日日新聞

 1947年4月、私は新制中学校として開設された下松求麻村立下松中学校に入学した。下松中学校は、小学校区ごとに、中谷が入る本校と、鮎帰、深水、下松西部の3分校で発足した。

 私が通う本校は廃校になった西部国民学校生名子分教場での仮住まいからスタートした。教室は二つしかなく、3学年のうち1学年は“青空教室”。梅雨の長雨の時期は2学年合同で教室を使用した。晴れた日は、自由体育と称し、河原で相撲や陣取り、投てき(大小の石を使って)や持久走を行った。

 何もない学校だったが、優れたものが一つだけあった。それは国民学校時代と違い、兵隊帰りの屈強で優秀な男の先生がそろっていたことだ。明治大学出の国語担任、法政大学出の英語、社会担任、関西大学出の数学担任、文理科大学出の体育主任、師範学校出の校長先生…。教科書に載っていないような面白い話をガリ版刷りにして私たちに配ってくれ、理解するまで熱心に教えてもらった。

 2年生の暑い時期だったと思う。校舎が手狭だったことと通学の便のことも考え、学校は坂本駅近くの王子製紙の工場の倉庫に引っ越すことになった。

 机や椅子、黒板や教壇、オルガンなどを抱え、線路沿いの4キロ近い道のりをアリの大群よろしく移動。小さい子も大きい子も、男女の隔てなく全員で協力し合い、生徒と先生たちで引っ越しを完了した。今思えば、国民学校時代に培った負けじ魂と団結力がなした技だったと思う。こんな体験を今の子どもたちにもやらせてみたい気がするが、時代が違うと親に叱られてしまうだろう。

 製紙工場の倉庫には卓球台が2台あり、休み時間には利用することができた。スポーツらしきことをしたのはこれが最初だった。

 倉庫では製紙工場の柔道部も練習をしていた。興味を覚えた私は一緒に習い始め、練習しているうちに黒帯の人たちにも技が通じるようになり、このクラブ主催の大会の初段以下の部で優勝するまでに上達した。

 ある日、この柔道部の先生から「けんかばっかりするのはやめて、しっかり練習して八代高校に行け。勉強して親孝行しろ」とさとされ、新しい柔道着をいただいた。その日からは雨の日も風の日も柔道の練習に汗を流す日々が続いた。

 幸いなことに父も柔道が大好きだった。当時全国大会でも活躍していた八代高校柔道部に入ることが目標になった。

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