『女教師たちの世界一周 ――小公女セーラからブラック・フェミニズムまで』はじめに
19世紀イギリスで、男子校にひけをとらない教育を行う教員養成のための女子校が生まれてから、女教師たちは女性の権利のために戦い、女性がよりよい教育を受けられるよう尽力してきました。
インドやカナダ、アフリカ、そして西インド諸島――。大英帝国にイギリス式女子教育を広める冒険の旅の光と影を描く『女教師たちの世界一周』より、「はじめに」を公開します。
温かく、「わきまえない」女教師との出会い
1980年代の終わりごろ、修士課程で受けた奨学金を棒引きにするため、筆者は義務教育課程の教師になった。23、4歳で多額の借金を背負った者には、この方法が当時もっとも魅力も現実味もあると思われた。勉強をして、なんとか神奈川県の公立中学校に採用された。生まれ育った大阪府の試験は受けなかった。本書の主人公である女教師たちの多くは、海外も含め長距離を移動した経験の持ち主だが、筆者も、仕事に就くとしたら故郷以外の地でスタートを切りたいと漠然とそう考えていたからだ。
ところで、筆者が卒業した大阪府立の、今では吸収されて名前さえ消えた女子大学は、たしか関西で2番目に女性学講座、その名も「女性論」を開講した学校だった。筆者が入学した1982年のことだ。それまで「婦人問題」とか「女性問題」と呼ばれていたテーマを扱うという。「婦人」には当時すでに古臭い響きがあった。だからといって「女性問題」もねぇ。これではまるで週刊誌の「異性間スキャンダル」用語だ。だから、「女性論」というネーミングはとても新しかった。さまざまな分野に存在していた女性への差別や排除を可視化し議論するのにふさわしい講座名だと、大学でジェンダー論を担当するようになった今でも、筆者はそう思っている。
筆者はその学校でフェミニズムをテーマに卒論と修論を書いた。英文学科在籍だったので、「英語で書かれた文芸作品を題材にしなくてはならない」という条件があり、19世紀後半から勃興した欧米の「第1波フェミニズム」を、フェミニストが残した文章を読んで理解しようとした。過去を少し知ると、1980年代現在のフェミニズムが何を議論しているかにも興味を持つようになった。というわけで、自分で言うのも気恥ずかしいが、少しはフェミニスト的視点を身に着けて、筆者は新米女教師となった。
赴任したのは神奈川県西部の学校だった。はじめの2年間は担任希望を出したにも関わらず、学級担任になれなかった。同期の男性教師は、希望調査に「どちらでも」と書いたが2年目に担任になった。フェミニスト新米女教師は、この事態を女性差別だと認識した。ちょっと目を凝らして教室内を見渡せば、あるは、あるは。そこここに「女子差別」がうごめいていた。男女別(男子優先)名簿や、「男子は生徒会長・委員長、女子は副会長・副委員長」の慣習など、目につきやすいものだけではない。授業効率の観点から、応用問題を女子にはほとんど答えさせない教師、「2次関数くらいから女子は点が取れなくなるよなあ」と定期試験採点の午後の職員室でのたまう教師、「グループ学習」でクラス全班の司会進行を男子にさせる教師、「あそこの母ちゃん、いつも冷凍食品食べさせてるから子どもがひねくれんだよ」と自説を開陳する教師もいた。教師がこの調子なので、生徒も影響されるのは当然だ。発言を冷やかされたり、さえぎられたりするのは女子ばかり。新任の女性教師には暴言を吐くが、体罰男性教師の前では黙る生徒も普通だった。
フェミニズムを机上で学んだ新米女教師は、毎日、毎時間、教室で、校庭で、体育館で、多種多様な差別と排除と抑圧を目撃した。男女共学の公立中学校だから、教室にはほぼ同数の男女が居る。戦前の男女別学の時代はとうに終わっていた。しかし男女を同人数、同じ教室に入れただけでは、当たり前だが男女の平等が実現するわけではなかったのだ。そのことを改めて認識した頃、筆者にも学級担任の番が回ってきた。
採用されて3年目のことだった。その年に入った1年生が筆者の学級担任として初めて関わる学年になった。新1年生の学年副主任は保健体育担当のベテラン女教師H先生だった。当時は、新学年を編成するにあたり、事前に近隣の小学校との「打ち合わせ」があった。6年生担当者から中学校で迎える担当者へ、子どもたちの状況が「申し送られ」るのだ。それを受けて、筆者のようなビギナーには、やんちゃな子が極力いない、穏やかそうなクラスが編成される。一方、ベテランには、「大変そうな子ども」がたんといる、にぎやかになりそうなクラスが託される。
筆者の学級は、もともと「穏やか系生徒」が大半を占めるクラスゆえに、ほぼ穏やかに日々は流れた。ベテランの学級と言えば、当初の「申し送り」に基づき予想されるような事態とは無縁だった。とくにH先生の学級の「楽しい落ち着きぶり」は彼女の指導力と人間力によるものだと、学年の誰もがそう思った。それでも学年が上がっていくにつれ問題は起こる。やんちゃベスト1の地位を誇る男子生徒Gの暴れん坊ぶりが目に余るようになり、個別指導をしなくてはいけないとなった時のことだ。
学年主任となり学年全体の仕事に専念するためクラス担任をはずれていたH先生は、Gと向かい合って座った。仲間の生徒数人に対して暴力をふるったことに反省の色もないGに、H先生は、「1年生からあなたを見てきたけれど、あなたは大きな勘違いをしたね」と静かに言葉をかけた。「仲間がたくさんいて、あなたの言うことを聞いてくれている。」「○くんたちはGちゃんのことが好きでそばにいてくれているのかな?」違うと思う、と小さく答えるG。
「うん。あなたのことが好きで、尊敬できるからじゃないよね。逆らったら殴られるから、怖いから。」「Gちゃんも、うすうすわかっているんだよね。」
G、こっくりうなずく。
「こんなことをずっとしていたら、あなたが大人になったとき、周囲にはもう誰もいなくなるよ。力で仲間を引き留めていただけだから。今はまわりが怖がってそばにいるけど、大人になっても、そばに居続けてくれると思う?」
静かに、穏やかに、わかりやすい言葉づかいで、H先生はGに語り続けた。はじめは呼び出しをくらってふんぞり返っていたGが泣き出した。「そんなのいやだ」と言う。何がいやなの?とH先生が尋ねる。「誰もそばにいなくなるのはいやだよ~~~っ!」と、今度はもう号泣だ。隣で見守っていた我々学年担当者や校長さんも、もらい泣きした。この日を境に、卒業期まで、Gちゃんは一所懸命、「手の早い」自分の性分を堪えた。そして、そのたびにH先生のところに顔を出してニコッと笑った。すごい、凄すぎる、とても真似できない。フェミニズムで修論を書いたビギナー女教師は、周囲をフィジカルな力で支配することの愚を、こんなに温かな対応で本人に思い至らしめたH先生の教師っぷり、もっというなら女教師ぶりに、心底感動したのだった。
温かい人柄だが決して「わきまえない」女教師H先生の存在は、「オールド・ボーイズ・クラブ」と揶揄される男性中心社会の、その一例である公立中学校では、まさに希望の光だった。筆者は、H先生という先達のおかげで、教室の中のジェンダー平等へのヒントを得た。
本書でこれから始まる「イギリス女教師」による世界一周にも、彼女たちの女教師ゆえの経験が刻まれる。もちろん、歴史的、文化的背景の違いからも、1980年代末の日本の公立中学校女教師が体験したことと異なっていることは確かだ。だが、もともと男性の職域に、女性が同僚となって参入していった歴史は、イギリスも日本とそう変わらないプロセスをたどった。また、戦前まで「男女席を同じゅうせず」だったように、イギリスでも、社会階級が上になればなるほど、男女の別学が長らく基本だった。詳しくは本文を読んでいただきたいので、ここでは簡単な説明にとどめておく。
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