大学を卒業して四国の高知県に帰った植田洋平は、高校サッカーの指導者になるという目標を描いていた。
平日は中学校の講師として教壇に、週末は社会人サッカーのピッチに立っていた。そんな生活は8年ほど続いた。週末、サッカー仲間と過ごす時間は心地よかったが、同時に遊ぶ時間が増えたこともあり、高校教員の採用試験にはなかなか受からなかった。
ある日、中学時代の先輩から1本の電話を受ける。聞けば、愛媛県にある私立校・帝京第五高校がサッカー部の指導者を探しているという話だった。
その年、帝京第五高校の当時の校長がサッカー部の強化を図ろうと、ある人物に相談を持ちかけた。帝京高校サッカー部(東京都)を全国屈指の強豪に育てた古沼貞雄だった。
■自分の手で強く
帝京大学グループを創立した冲永荘兵衛。帝京第五高校は、冲永の出身地である愛媛県大洲市に創られた
帝京第五高校は、全国に大学から幼稚園まで多くの教育機関を持つ帝京大学グループの一つ。グループ創立者の冲永荘兵衛(1903~81年)が現在の愛媛県大洲市出身という縁で、63年につくられた学校だ。
古沼は、冬の全国選手権で帝京高校を6度の優勝に導いた名将。長崎・国見高校を率いて6度優勝した小嶺忠敏と並び、戦後最多タイの記録になっている。その古沼の教え子が、植田に電話をかけた人物だった。「本当にやる意思があるなら、一度、古沼先生に連絡するといい」
念願だった高校サッカーの指導者という道が目の前に開けた。この時、30歳。このチャンスを逃す選択はなかった。2009年秋、植田は帝京第五高校の保健体育の教員として採用された。当時のサッカー部は全国はおろか、県大会にも進めないチーム。だからこそ自分の手で強化することにやりがいを感じた。
■バスで全国を転戦
指導者になって最初の5年ほどは「完全に小嶺先生のコピーだった」と植田は語る
「指導者になって最初の5年くらいは、完全に小嶺先生のコピーでしたね」。就任当時を植田はそう語る。30歳にして、高校サッカーの「新人監督」。国見では小嶺から多くを学んだが、見方を変えれば高校サッカーの指導者は小嶺しか知らない。それ以外に引き出しはなかった。
植田は国見や国士舘大学の人脈をたどり、がむしゃらに県外での練習試合を求めた。マイクロバスのハンドルを握り、週末は主に四国、長期休暇になると大阪や九州などへ出向いた。高校時代、小嶺の運転で全国を転戦した光景と重なる。
成果はすぐに表れた。就任1年目の県総体で初めてベスト4に進出、6年目の2015年は選手権県大会の決勝まで進んだ。その決勝は、県内強豪の松山工業に1-9で大敗。決勝での9失点は大会ワースト記録だった。指導者として経験の少なさもあった。しかしそれ以上に、自身が「未熟だった」と語る決定的なエピソードがある。
■決勝で出た「甘さ」
植田の就任6年目、帝京第五は全国選手権の愛媛大会で初めて決勝進出を果たした=2015年、松山市
決勝戦の7日前、準決勝でのこと。1点リードで迎えたアディショナルタイムにチームの中心選手が手首を骨折する。試合には勝ったが不安が募った。「普通はその選手は決勝には出さないじゃないですか。でも僕は出したんですよ」。先生、僕を出してくださいと、その生徒は泣きながら訴えたという。その選手が頑張ったから決勝まで来ることができた。だから彼に懸けてみよう。植田はそう思ったという。
自分の甘さであり、未熟な部分。それが決勝の舞台で出た。チームは1人のけが人を気遣うあまりバランスを欠き、前半だけで4ゴールを奪われる。その後も一方的な展開になり、指導者として初の決勝で9失点。放心状態だった。
■なにくそ根性
初めての決勝で帝京第五は9失点と大敗を喫した=2015年、松山市のニンジニアスタジアム
「穴があったら入りたい。試合中、終始そんな心境でした。テレビで生中継されている試合ですしね。でも、あの年にあんなつらい思いをしたから、なにくそ根性は生まれました」
高校時代、小嶺がよく言っていた。「壁にぶつかってからなんだよ。そこで折れたら終わり。いかにそこを自分で突破できるかなんだよ」。20年以上たった今も、植田の頭にその言葉が残っている。(敬称略)
Episode 5に続く
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