今年1月、大学入学共通テスト初日の朝、試験会場の東京大学前の路上で、受験生の高校生ら3人が刺され、17歳の男子高校生が逮捕された。新聞などの報道によると、東大を目指していたが、成績が上がらず自信をなくして絶望したことがきっかけで犯行に及んだとされている。コラムニストの河崎環さんは、この事件の背景に、根強い「東大の呪い」を見たという――。
■ネット記事でウケる最強キーワード
ネットメディアに携わる物書きや編集者の間で、自虐的な笑い話として「ネット記事のネタに困ったらこの3つにすがれ」というものがある。「東大」と「美女」と「年収」だ。タイトルに入れたら必ずハネる(ヒットする)強力なワードであり、特にビジネス系や週刊誌系のメディアではまあ間違いなくある程度のアクセスが保証されるから、不思議なものである。
世間は、「東大」と「美女」と「年収」と、それらをまとめる概念としての「一流」が大好きだ。架空のタイトルをつけてみようか。
「東大卒・年収1億の外資コンサル美女を会員制秘密クラブで狂わせた“あの一流企業”有名役員の素顔」
ああ下品。でも本当にありそう。世界平和とか高尚な哲学なんて正直全然ウケやしない。こういう記事こそ世間の人々が素知らぬ顔してクリックし、興味津々で読むのだ、ということを、「人々の欲望にダイレクトにリーチする」のが仕事のネットの人間は数字で知っている。
東大に行ったことがある人もない人も、「東大」の2文字を見てそれぞれ親近感や反感をもって反応する。女性であろうが男性であろうが、「美女」の2文字にザラっと(あるいはムラっと)する。「年収」の2文字を目にして、優越感や劣等感や将来への不安が満遍なく喚起される。
その理由とは、「一流」という言葉が人々の目を留めるのと全く同じ理由だ。一流、二流、三流と聞いて「大学の話かな」「会社の話かな」とうっすら感じたりしないだろうか。全ては、我々おじさんおばさんが初等教育から就職まで「ランキング」「順位」で評価され続け、順位が上であるほど「スゴい」「上等」と価値観を叩き込まれ、競争させられた教育の記憶が起こす残像なのである。
だから、「東大」の2文字には呪いがある。それは競争や順位なるものに一生懸命になった(ならされた)ことがある人だけがかかる呪いである。
■「東大の何がスゴいのかよくわからない」
「東大に入ること」に全く興味も関心もしがらみもない人が、あるときこうボヤくのを聞いた。
「東大、東大って、みんな騒ぐしチヤホヤするけどさ、東大に入ることが凄いとか、東大に絶対入るんだ、みたいな価値観って、完全に洗脳だと思うんだよね。そういう環境で洗脳されるから、みんな東大が一番だと信じてドヤったり妬んだりするわけでしょ」
「でもさ、東大が一番だとか、ましてや一番であることが最もいいことだ、なんてそもそも思っていない文化や環境で育った人からすれば、東大って聞いても何にも感じないんだよね。だから、“東大のスゴさ”を信仰する人たちってのは“そういう価値観を刷り込まれたから”だけのことだよね」
東大合格者数日本一の女子校なんていう変わった環境で育った私の目から、鱗がボロボロ落ちた瞬間だった。
そうだ、東大を誇るとか憧れるとか妬むなんてのは、根拠はなんであれ「東大はスゴイ」と思ってなけりゃ起こらない感情である。「はい、私は東大はスゴいということに同意します」という宣誓書に積極的であれ消極的であれ署名をした人だけを襲う感情なのだ。
■「東大の呪い」にかかる人、かからない人
東大を頂点とする受験ヒエラルキーの中で一生懸命に勉強した経験があって、そこで「東大に入れる学力って、ホント半端ないな~!」と、多少の尊敬と一緒に身体知で刷り込まれるのはまだわかる。ところが、それまでは東大に対して関心もなくフラットな気持ちだったのに、世間で何らかのマウンティングを受けた悔しさで東大を意識するようになった、なんてのは、不幸な「東大との遭遇」だ。
たとえば、たまたま出会った人柄の悪い東大卒の誰かにコケにされたとか、「私、東大卒の人としか結婚しないって決めているんですぅ」とどこかの世間知らずな女に謎のフラれ方をしたとか……。ご愁傷さまとしか言いようがない。そんな無礼なアホたちとは関わらないのが吉である。
「東大の何がスゴいのかよくわからない、羨ましいと思ったこともない」というその人は、生まれが恵まれすぎて東大を頂点とする受験レースに参加する必要がなく、たぶん学校や仕事や社交の場で「自分が東大と何の関係もない」ことに何の感情も抱かなかった人である。そういう「東大スゴい」の書類にサインしたことのない人にとって、東大とは純粋に曇りなく「へー」であり、「くらえ、東大の呪い!」とスペル(呪文)をかけてもinvalid(無効)なのだ。
■ゲーム的攻略目標としての「東大」ブランド
そして、子どもの数がやたらと多くて、生き残るためには競争がデフォだった世代とは異なり、少子化で外見も中身も激変した新しい形の教育で育った、若くて豊かな世代においては、受験のキツさも意味も変わってしまった。今の子たちは小さな教室に50人もギュウギュウ詰め込まれないし、朝礼でクッソ暑い/寒いなか砂埃だらけの校庭に集められて乾布摩擦させられたりしないし、私語がうるさいとか問題が解けなかったとかで教師にバットで殴られたりしない。
その昔、勉学に励んで優れた成績を取ることは、生き残り策や階級上昇策だった。だが少ない子どもたちに豊かな資本が投下される現代では、「東大」は切実な生き残り策ではなく、どこかゲーム的な達成目標の匂いがする。
■トップだと世間に証明するために
東大で何が学びたいか、誰と会いたいか、どんな学生生活を送りたいか、が動機ではない。「ピラミッドのトップだから攻略したい」の発想だ。はっきり言ってそれが東大じゃなくたって全然構わない。競争の頂点でありさえすればいい。俺が/私が一番なのだと証明さえされればいい。現代のテレビのクイズ番組を見て育てば、「東大はブランドだ」と確信を持つのも当たり前だ。実際、東大の2文字はメディアでは間違いなく数字を稼いでくれるブランドだ。
そういうブランドとしての発想は現代だけに特徴的なわけではなく、学力と人格がどこかアンバランスな学生の間には以前からあった。中学校受験などで年齢ヒト桁から全国模試を受けさせられ、自分の名前が成績順のランキング表に掲載されるのを当たり前とし、それを見て「(狭い)世界の中の自分の位置」を確かめる精神習慣を培った学生が、大学の志望校を問われて「理三です」と無表情に答える。「東大に行きたいわけでも、他大学の医学部や医大に行きたいわけでもないです。理科三類に行きたいんです。自分の居場所はそこしかない。だってトップですから。医学部に進んで医者なんかになりたいわけじゃないです。自分の頭脳は日本のトップなんだって、世間に証明できればいいんです」
■「東大理三しかない」と思い詰める不幸
だから、その事件にはどこか既視感があった。
今年1月15日の大学共通テスト初日、東京メトロ南北線東大前駅からすぐの東大弥生キャンパスで、名古屋市の17歳男子高校生が72歳男性に刃物を突き立て、受験生の17歳女子高校生と18歳男子高校生にけがを負わせるという刺傷事件が起きた。捕まった少年は東大理科三類を目指して猛勉強していたが、成績が下降し精神的に追い詰められ、「東大理三に合格できないのなら自殺しようと思った。人を殺して、罪悪感を背負って切腹しようと考えた」と供述したという。
医師を目指していたのではない。順位や偏差値への強い執着を持っていて、自分は成績ランキングトップの存在なのだと周りに証明するために、東大理三に固執し続けていたのだ。学業面の失敗にパニックを起こし教室内で発作的に自傷行為に及んだことがあるとも言われており、その自傷的な性格傾向の延長上にあった殺人未遂事件である。
17歳で東大、しかも理科三類しかないと思い詰める人生は、不幸だ。周囲の誰も、そうは無理強いして教え込んでいなかったと報道されており、それが本当なら、なぜ誰も思い詰めた彼の異常に気づかず、救ってあげられなかったのかと感じる。黙々と真面目に勉強しているなら、少しくらいおかしな言動があっても変人の範疇で大丈夫だ、放っておこう、と大人たちは思ったのだろうか。ならば「勉強ができるなんてのは不幸なことだな」と思う。
トップ、一位、最高、あるいは一流。何もかもを比較して並べるランキングの中にしか自分の存在を確かめられなくなってしまった人間は、その優れているはずの脳が腐る。それは大人の世界になお顕著だ。磨かれたはずの知性を、信じられないほど下劣なことに雑にドバドバ注ぎ込み、ズブズブと沼の中に溺れていく。そんな、互いを比べてギスギス競争するばかりの貧しい人生を送る「エリート」にたくさん心当たりがあるだろう。
大人は、そんな貧しい「エリート」のミニサイズを育てちゃいけないんだ。
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河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト
1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。
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プレジデントオンライン
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最終更新:2/10(木) 12:01
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