各都道府県には「旧制第一中学」と呼ばれる名門公立高校がある。明治期に作られた「第一中学」の流れをくむこれらの高校は、各地で不動のステータスを誇る。教育ジャーナリストの小林哲夫さんは「特に1960年代の“旧制一中”は地域の天才や秀才が集まっており、東京大学への進学実績も非常に高かった。地域によっては東大卒よりも価値があると言われていた」という――。(第1回/全3回)
※本稿は、小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。
■新制高校になってから築き上げた「一中ブランド」
旧制第一中学ではその地域の神童、天才、秀才が一堂に会する。それは難関大への合格実績にしっかり反映されてきた。都道府県別に、一中から東京大合格者をもっとも多く出した年をまとめてみた(図表1)。このなかで上位十校は次のとおり(※図表2は2021年における一中からの東大合格者数)。
一中が戦前から継承された、そして新制高校になってから築き上げた「一中ブランド」効果といっていい。なかでも突出していたのが日比谷である。同校からの東京大合格者は1960(昭和35)年:141人、61年:171人、62年:186人、63年:168人、64年:193人、65年:181人だった。
なぜ、日比谷はこんなに強かったのか。
■9教科平均で90点を取っても合格できない
このころ、日比谷に入るために中学生は猛烈な受験勉強をしていた。1956(昭和31)年から都立高校入試は9教科(国語、社会、数学、英語、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭)となっており、900点満点の試験で、日比谷に合格するためには830点以上必要と言われていた。
たとえば、1963年当時の資料によれば一科目平均92.2点であり、他の都立高校よりも明らかに高い(『青山学院高等部 最近5年間入試問題と解説付東京都立高校最近3年間入試問題』東京図書、1963年)。なお、都立高校を受験するためには、都内で定められた学区の中学を卒業予定でなければならない。そこで、他県からその学区の中学に転校してくる教育熱心な家庭が出てきた。越境入学だ。これは後述する。
また、東京教育大学附属駒場中学(現・筑波大学附属駒場中)を卒業して日比谷に入学する秀才もいた。いまでは考えにくいことである。
■「テストをたびたびすることは、自発的学習のじゃまになる」
東京大など難関大学に進むために日比谷に入りたい――。成績優秀な中学生の高校受験パターンとして、第一志望が日比谷、第二志望が開成、武蔵、麻布、早稲田大学高等学院、慶應義塾、東京教育大学附属(現・筑波大学附属)、東京教育大学附属駒場などの高校であることが少なくなかった(当時、武蔵や麻布では高校からの募集があった)。
1960年代前半、日比谷ではどんな授業を行っていたのか。同校の進学指導主任教諭が自著でこう記している。
「わたくしどもは、補習授業をしたり、超学年制をとったりすることが、高校としてまちがっているだけでなく、受験のためにも決してプラスにはならない、と信じています。〔略〕まず、本校ではテストの回数を極力減らしている〔略〕テストをたびたびすることは、自発的学習のじゃまになる」(加川仁『必勝大学受験法―――〈東大入学日本一〉の勉強法をあなたに』講談社、1963年)
ここで言及された「超学年制」とは、学年を超えて高校2年修了時に3年までの課程を修了させることである。先取り学習で、いまはめずらしくないが、当時はそれほど多くなく、東京大合格者数を急速に増やしていた灘高校などが採り入れていた。
日比谷は灘を「まちがっている」と批判したことになる。高校は受験予備校ではなく、日比谷はそんな野暮なことはしない、というプライドを持っていたのだろう。
■教壇に立っていたのは教養人や受験指導のプロ
日比谷の別の教員は、1964(昭和39)年の東京大193人合格についてこんな談話を寄せている。
「東大の合格者数は昨年に比べ26名ふえたが、その理由は低調だった昨年の現役(ことしの1浪)が活躍したからであろう。事実、1浪合格者は89名から107名にのぼった。本校は現役の生徒には、受験のための補習授業はいっさい行なわない。学校での学習はいわゆる授業徹底主義で、1科目100分の授業をフルに活用する。わからないことは最後まで突っ込み、授業の内容は相当に深い。この授業徹底主義こそが、受験勉強としてもっとも大切なことであろう」(『螢雪時代』1964年5月号)
同年、東京大に合格した日比谷高校出身者は、通信添削の増進会(現・Z会)機関誌の座談会でこう話している。
「現代文は授業がたいせつだと思います。ぼくたちは、自分で一つの作品を選び、それを授業時間のとき、研究発表をするんです。生徒同士でやっているから、親しみもあって、先生がやるときよりも活発に質問が出る。そうしたことが力になりました」(「増進会旬報」1964年8月1日発行)
授業の大切さや予習復習の重要性を説いた内容である。教える側には前身の旧制府立一中から教壇に立っているベテランがいる。大学入試に精通した受験指導のプロ、学問分野をきわめた教養人などがいた。1970-90年代、受験の英語で一世を風靡した『試験にでる英単語』の著者、森一郎氏はその代表格であろう。
■なぜ一中に地域のエリートが集まってきたのか
もっとも、他校の進路指導教諭は冷ややかに受け止めていた。日比谷は各地域の中学の1、2番が集まってくる、そんな秀才たちは自分で勝手に受験勉強を先取りするから、日比谷の先生は楽なんじゃないか。日比谷だからこそそんなスタイルの授業でも東京大受験に対応できるのであって、そのやり方がどの高校にも通用するわけではない、と。
ではなぜ、日比谷のような一中に地域のエリートが集まったか。そこには歴史的な背景、学校の事情があり、下記の要因が考えられる。
(1)ブランド力 東大より一中
1949(昭和24)年に東京大入試が始まってから、その都道府県内で東京大合格者数1位をほぼ続けてきた学校がある。入試制度、学区の変更などに影響を受けなかったところだ。山形東、浦和は1位を譲ったことがない。盛岡第一、秋田、宇都宮、高松は1、2回トップを逃した程度だ。
私立や国立大学附属が圧倒的に強く県下トップにはなれないが、進学実績面で長く2番手のポジションを守る一中がある。地元で「名門校」としての存在感をしっかり発揮しており、これらも記しておきたい(カッコ内は私立、国立大学附属の東京大合格者数1位校)。
千葉(⇔渋谷教育学園幕張)、金沢泉丘(⇔金沢大学附属)、松山東(⇔愛光)、修猷館(⇔久留米大学附設)、鶴丸(⇔ラ・サール)などだ。
■東大に進学するより価値があった
いくつかの学校は学校群制、通学区変更という政策でも受け入れ生徒の学力が大きく下がるということはなく、神童、天才、秀才たちが離れていくこともないまま一中のブランド力を維持できた。もちろん、伝統を継承してきた底力、時代の変化に挑んできた試みのおかげだが、地域の入試制度が一中を守った側面はある。
それを受けて、各中学校には、学年トップを一中に送り出すという不文律が引き継がれてきた。もっとも中学生天才児が一中ではなく、地方からも開成や灘に進むケースがあり、ブランド力は万全とはいえないが、一中が廃れるということはなかった。
また、いまでも都道府県、市町村の幹部に一中出身者が多いところがある。首長が一中出身というところも少なくない。知事では、岩手県・達増拓也(盛岡第一)、茨城県・大井川和彦(水戸第一)、新潟県・花角英世(新潟)、岐阜県・古田肇(岐阜)、和歌山県・仁坂吉伸(桐蔭)がいる。彼らはみな東京大出身である。
任期途中で病を得、辞職して闘病ののち亡くなった福岡県・小川洋(修猷館、京都大出身)も、大阪府知事、大阪市長をつとめた橋下徹(北野、早稲田大出身)もいた。一中出身者は知事選挙をうまくたたかえる。同校卒業生のネットワークが威力を発揮し、一中というブランドが特に効くからだ。
父、祖父、曽祖父など先祖代々、旧制中学時代から一中に入学してきたという家系もある。彼らにすれば、たとえば東京大や東北大よりも盛岡第一高校なのであり、その威光が消えることはないのだ。
■各都道府県に作られた「進学エリートコース」
1990年代まで、多くの地域では、通学できる範囲に制限のある学区制が敷かれていた。このため、特定の小学校と中学校を経て一中に進むケースが見られた。
1950年代後半から、高校進学率の上昇とともに、全国で教育熱心な親が現れた。子どもをなにがなんでも東京大へ行かせたい、という親の思いは、幼稚園、小学校選びから始まる。戦後の高度経済成長の恩恵を受けて世の中が豊かになったせいか、教育にお金をかけられる家庭が増えた。「教育ママ」ということばが普通に使われるようになった。
東京大、京都大や地元国立大学にもっとも多く入学する高校、そこにもっとも多く進学する中学校、そこにもっともにたくさん入れる小学校に通わせるため、各都道府県でエリートコースが作られつつあった(図表3)。
なかでも、もっとも有名なのが東京の番町小学校、麹町中学校、日比谷高校である。しかし、これらの小中学校に通うためには特定の学区に住まなければならない。そこで教育ママたちが考えたのは、学区内にアパートを借りて(または借りたことにして)住民票を移すことだった。越境入学である。
■約6割が越境入学していた番町小学校
1959(昭和34)年、番町小は37%、麹町中は39%が学区外から通学していた(当時の新聞報道)。メディアは「よい学校」だから越境が増えると解説する。
「“よい学校”というのは、なんだろうか。上級校への進学率がいいということだ。番町小からは、まず、無条件に麹町中に進学できる。麹町中から日比谷高への入学者は昨年が41人、卒業生541人の1割以下にしかすぎないが、それでも他の中学の進学者数をはるかに上回っている」(朝日新聞1959年1月13日)
1965(昭和40)年になると、番町小学校の生徒数約1700人のうち約6割が越境入学といわれた。番町小に通う小学生について、こんな記事がある。
「総武線の上り電車はサラリーマンでほぼ満員。黄色い学童帽がドアの人がきをたくみにかきわけ奥へもぐりこんだ。〔略〕A君は番町小1年生。家族の話だと、ある区議の骨折りで通学区域にある代議士の事務所に寄留、この春入学した。「ぜひ、東大医学部へ……」という母親の声援を受けて毎朝6時起床、7時には自宅を出てひとりで電車に乗る」(朝日新聞1965年11月12日)
このまま「A君」が番町小を卒業し麹町中に進めば、同中卒業は1974年になる。だがこのころ、麹町、日比谷をめぐる風景は一変していた。
■「番町小学校→麹町中学校→日比谷高校」というエリートコースの崩壊
1973(昭和48)年、日比谷からの東京大合格者は学校群制度によって29人(ランキング18位)まで落ち込んだ。このとき、メディアは麹町中教員の話として、1960年代半ばまでと当時(1970年代前半)の違いを紹介している。
「とにかく、この学校でも、すべてが日比谷に向かっていきました。学力のある子どもはすべて日比谷に行きました。教育大付属に受かっても、慶応高に受かった者も、わき目も振らずに日比谷に進学したものでした」
ところが、現在はどうなっているか。
「今年は34人が日比谷に合格しましたが、うち15人は他の国立の付属学校か、私立高校に進んでいます」(『週刊読売』1973年4月7日号)
こうして、番町小学校→麹町中学校→日比谷高校というエリートコースが崩壊する。いま、全国的に一中は学区が広がり、多くは都道府県内であればどこからでも通える大学区制になったため、特定の小学校、中学校から一中に進学する例はあまり見られなくなった。
一方で、各都道府県には国立大学附属小学校、中学校があり、ここから一中へ進むというルートは存在する。秋田大学附属中から秋田高、群馬大学附属中から前橋高、香川大学附属中から高松高校、熊本大学附属中から済々黌高校などである。
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