医大駅伝部を4年で全国に導いた40歳監督 コーヒー店経営の異色キャリアを歩んだ理由 – auone.jp

基本問題

埼玉医科大学グループ男子駅伝部が昨年元日、創部4年にして第65回全日本実業団対抗駅伝(ニューイヤー駅伝)に初出場し、36チーム中20位と大健闘した。2017年に部員5人で立ち上げ、短期間でひとかどのチームに成長させたのが、異色の経歴を持つ40歳の監督、柴田純一だ。実業団陸上界に登場した風雲児の横顔を紹介する。(取材・文=河野 正)

埼玉医大グループ男子駅伝部を率いる柴田純一監督【写真:河野正】

埼玉医大G・柴田純一監督インタビュー第1回、紆余曲折を経て辿り着いた指導者の道

 埼玉医科大学グループ男子駅伝部が昨年元日、創部4年にして第65回全日本実業団対抗駅伝(ニューイヤー駅伝)に初出場し、36チーム中20位と大健闘した。2017年に部員5人で立ち上げ、短期間でひとかどのチームに成長させたのが、異色の経歴を持つ40歳の監督、柴田純一だ。実業団陸上界に登場した風雲児の横顔を紹介する。(取材・文=河野 正)

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 生来の韋駄天である。小中学校と軟式野球に熱中した柴田は、小さい頃から快足で鳴らし、軟式野球少年団チームの駅伝大会にはエース格として出場。これが陸上界に入るきっかけとなる。

 埼玉県の入間市立野田中学校では軟式野球部に所属する一方、毎日1人で陸上の早朝練習に励むほど、走ることがルーティンワークになっていた。同校には現在も陸上部はないのだが、1996年に静岡市の草薙陸上競技場で開催された全日本中学校陸上選手権の男子3000メートルに出場している。埼玉の中学生の中では、長距離分野の第一人者でもあった。

“陸上部があればさらに強くなっていたのでは?”と水を向けると、「いいえ、自分で自由に考えて練習していたのが良かったんだと思います。監督になった今の指導方針もそうですが、受け身ではなくてなんでも自分からやることが大切ですよね」との持論を述べる。

 進路については、全国高校駅伝に4度出場した飯能高校など県内の複数の名門校から誘われたが、94年の全国高校駅伝で13位に入った狭山ヶ丘高校に入学。在学中は埼玉栄高校が強く、全国高校駅伝にもインターハイにも出られなかったが、99年1月にあった第4回全国都道府県対抗男子駅伝の埼玉代表に選ばれた。1、4、5区が高校生区間で、柴田は初の全国大会に胸を躍らせながら広島市に向かったのだが……。

「実業団や大学の有名な選手が大勢いて、試合が待ち遠しかった。でも本番になったらほかの高校生が起用されて自分は走れなかったんです。本当に悔しかった」

 部屋でへこんでいた柴田に詫びの電話を入れてきたのが埼玉チームの青葉昌幸監督で、当時の大東文化大学陸上部監督だ。柴田は「この悔しさを大東大で晴らそう」と広島滞在中に進学先を決めていた。

箱根駅伝で力走する大東文化大時代の柴田純一監督【写真:本人提供】

Honda退社後にコーヒー店のオーナーに転身

 入学後は一心不乱に練習に励んだ。猛特訓により才能とタイムが一気に伸び、1年生で箱根駅伝の1区に指名された。ところがオーバーワークがたたり、足を痛めて失速し無念の最下位。「優勝候補だったので先輩に合わせる顔がなかった」と述懐する。2年生では7区で2位と快走したが、もっと速くもっと強くという欲が出た分、体への負担が大きくなって故障を繰り返した。足の手術で3年目は欠場し、4年生の箱根も9区で17位と低調な記録に終わった。

 それでも4年生の全日本大学駅伝は5区で区間賞を獲得し、出雲全日本大学選抜駅伝は6区で2位。関東学生選手権2部ではハーフマラソンを制し、5000メートルでも2位に入って実力を証明した。

 卒業後の2004年、今年のニューイヤー駅伝で悲願の初優勝を果たした地元埼玉の名門Honda陸上部に加入したが、今まで経験したことのない高いレベルについていけず07年に退社。身の振り方については「長いこと陸上界に身を置いてきたので、何か違うことに挑戦したかった」と一念発起し、コーヒー店のオーナーに転身する。

 当初はコーヒーを提供する普通のカフェを経営するつもりだったが、セミナーなどで勉強と研究に明け暮れるうち、コーヒー豆を焼くことの楽しさにのめり込んだ。そうして08年11月1日、茨城県つくば市に自家焙煎の『SHIBATA COFFEE』をオープン。味の良さが評判となり、首都圏のコーヒー店に豆を卸したほか、通販も手掛けるなど経営は順調で1年半後には店舗をリニューアルしたほどだ。

 つくば市では毎年11月、全国から約1万9000人が集って出場するつくばマラソンが開催される。そのたびに大勢の参加者が柴田の店にやって来た。「まだホンダを辞めて間もなかったので、現役時代の自分を知っている市民ランナーの方も多く、『走り方を教えて下さい』とか『ランニング教室を開いてもらえませんか』と頼まれました。陸上に関わるって、自分が走ること以外は考えたこともなかったけど、市民ランナーのそんな声を聞いているうちに教える側に回ってみたい欲が出てきたんです」と指導者への道を発心する。

 まず中学か高校で陸上部に携わり、いずれは大学や実業団へステップアップする夢を抱いた。11年4月から母校の大東大で教員免許に必要な単位を取得するため、科目等履修生としてスポーツ・健康科学部に3年間通いながら、陸上部の奈良修監督を補佐する形でコーチ業も学んだ。練習が終わると焼き肉店で深夜まで働き、家賃と授業料をまかなった。

練習前に柴田純一監督の話を聞く選手たち【写真:河野正】

非常勤講師を続けるなかで届いた、教え子の保護者からの知らせ

 単位取得後も大学に1年残って陸上部を指導する傍ら、同じ東松山市にある東京農大三高で保健体育科の非常勤講師も務めた。強豪の陸上部にはその当時、20年12月の福岡国際マラソンを制した吉田祐也(GMO)が在籍していた。

 尊敬する指導者でもある川尻真監督の下、大いにやりがいを感じながらも非常勤講師という立場からは脱却したかった。しかし30歳を超えた年齢も足かせとなり、所望した正採用の道は叶わず非常勤のまま3年目を迎えた。そんなところに望外の知らせが届く。晩夏だった。

「私の職場で駅伝チームが立ち上がるので、指導者を募集していますよ。柴田先生も応募してみたら」

 埼玉医科大学病院に勤務する、東京農大三高時代の教え子の保護者から連絡が入った。実業団チームの指導者は大きな目標の一つだ。熱心に指導した生徒の親がつないでくれた良縁。男女の結びつきではないけれど、柴田にとっては“縁は異なもの味なもの”という思いだったろう。(文中敬称略)

(河野 正 / Tadashi Kawano)

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