【プロレス蔵出し写真館】今から33年前の1988年(昭和63年)10月31日、ボブ・バックランドを取材したのは、米コネチカット州ハートフォードにあるアルベルト・グリスウォルト・ジュニアハイスクール。
86年から米マット界でセミリタイア状態だったバックランドは、ここで体育教師をしていた。
【写真】場内ブーイング!高田のキックで悶絶KOのバックランド
月曜から金曜まで1日5~7時間を受け持ち、体育実技と保健体育を教えていた(写真)。バックランドがニューヨークのチャンピオンだったことを、同僚や生徒のほとんどが知らなかった。
バックランドは78年2月20日、ニューヨークMS・Gでスーパースター・ビリー・グラハムを破りWWWF(79年にWWFに改称。現WWE)ヘビー級王座を奪取。移動の時は常にスリーピース・スーツ着用というオール・アメリカン・ボーイというキャラクターで、童顔のベビーフェイスで活躍。83年12月26日、同所でアイアン・シークに敗れるまで5年以上に渡り王座に君臨、〝ニューヨークの帝王〟と呼ばれた。
78年に王座に就いてすぐ、バックランドは新日本プロレスに来日してアントニオ猪木と名勝負を繰り広げた。
6月1日、日本武道館で猪木のNWFヘビー級王座も賭けたダブルタイトル戦は1本目、40分8秒リングアウトで猪木に先制を許し、2本目は60分フルに戦い時間切れに終わり1―0で敗れたがWWWFルールで王座を防衛した。7月27日に同所で行われた防衛戦は1―1から61分時間切れ引き分け。28歳のバックランドの体はゴツく、アマレスの下地のある体幹の強さは半端なかった。
ところで、事実上引退していたバックランドを訪ねたのは、この年の12月22日のUWF大阪大会への参戦が発表され、11月10日に名古屋大会で行われる頂上決戦、前田日明VS高田延彦の勝者と対戦することが決定したからだ。
ハートフォード郊外の自宅を訪問すると、地下にあるトレーニングルームにはベンチプレスなどの器具だけではなくアマレス用マットが敷かれていた。地元の中・高・大学のレスリング部のコーチだけでなく、ここでちびっ子からレスラー志望の青年まで20人ほどを教えていると話してくれた。
米マットではなく、日本で復帰することには「日本では自分のやりたいレスリングができる。相手が誰であろうと、今の私が負けるはずがない」。そう自信たっぷりに語ったバックランドはバーベル、チューブを使ったトレーニングを披露してくれた。
撮影していると、ふいに自宅のチャイムが鳴った。来客かと思いきや、魔女風の大きな帽子をかぶった小さな子供たちが訪ねて来た。この日はハロウィンだったのだ。バックランドは優しく対応し、用意していたチョコなどお菓子をあげていた。
さて、UWFでの頂上対決を制した高田と対戦したバックランドは、チキンウイングアームロックを決められギブアップはしなかったものの、レフェリーストップで敗北した。
その後、91年6月9日にフロリダで米国の新興団体UWF(ユニバーサル・レスリング・フェデレーション)で米マット復帰戦(相手はイワン・コロフ)を行い、「日本のUWFが分裂したのも知ってるけどタカダやマエダとやってみたい。」と意欲的なコメントを出した。
同年UWFインターナショナルに来日が実現し、9月26日の札幌大会で高田と雪辱戦。しかし、わずか75秒で高田のミドルキックを右そけい部(モモの付け根)に受けて立ち上がることができずKO負け。あまりのあっけなさに館内は一時、暴動寸前になり山崎一夫がマイクで観客を説得した。11月7日の大阪での再戦もギブアップ負けし、結局バックランドは高田に3連敗を喫したのだった。
猪木との名勝負が記憶の片隅に残っているだけに、複雑な思いが去来した。バックランドはUWFとは相性が悪かった。(敬称略)
東京スポーツ
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