発達障がいの息子(小4)の子育てに奮闘しているちゃみママです。今回は書道家、アーティストとして世界で活躍中の武田双雲さんにお話を伺います。大人になってから「もしかしたら自分はADHD(注意欠如、多動症)かも?」と気づいた双雲さん。まずは子ども時代の話や、親御さんとの関係性についてお話を聞いてみました。2回に分けてお届けします。
【プロフィール:武田双雲(たけだ・そううん)】
1975年熊本県生まれ。書家である母、武田双葉に3歳から師事。東京理科大学理工学部を卒業後、NTT東日本に入社。約3年間の勤務後、書道家として独立。NHK大河ドラマ「天地人」、映画「北の零年」など多数の題字やロゴを創作。音楽家、彫刻家らと積極的にコラボレーションし、国内外で個展などを開催。著書に「ポジティブの教科書」(主婦の友社)、「『子どもといること』がもっと楽しくなる 怒らない子育て」(主婦と生活社)などがある。
不幸感はないけれど、ひとりだった
――武田さんはどんなお子さんでしたか。
とにかく元気で勢いのある子どもでした。先生が怒って僕に注意しても「何?何?先生、なんか言った~?」と、大きな声で明るく先生に聞き返しているような感じでした。
――小さい頃から元気で勢いがあったんですね。3歳からお母さまに書道を習っていたそうですが、習い事は書道一筋ですか。
書道のほかにもいろいろやりましたよ。スイミングや音楽など。でも書道以外は続かなかったですね。たぶん楽しさを見いだせなかったんだと思います。
――でも習い事もたくさんやって、学校でも元気で明るいとなるとクラスの人気者ですよね。学生時代はずっとそんなキャラだったんですか。
いや元気で勢いあるキャラは小学校4年まで。小学校4年の後半~5年生あたりからだんだん暗雲が立ち込めていったんですよ。
――暗雲ってどんな感じになったんですか。
先生に怒られることが増えたり、友だちからちょっと変な人と見られることが多くなったりしました。当時は自覚無かったんですが、今思うと自信を失くしていたかもしれません。
――ちょうど思春期に入る頃ですよね。中学校ではどうでしたか。
僕が中学生の頃は、ヤンキー=カッコいいみたいな時代だったんです。だから、ヤンキーとかけ離れたところにいた僕は、小学校の時よりも殻にこもってましたね。うまくいかないことが多くなって、気持ちとしては鎖国の中で一人じっとしている感じでした。好きな量子力学とか宇宙のことをよく考えていました。その状況を不幸だと思ったことはないんですが、自分の好きなものを友だちと共有する楽しみはなかったですね。
――ご自身がADHDだと気づいたのは大人になってからだそうですが、どういったことがきっかけでしたか。
たまたまADHDのことをニュースで知って「どんなものなんだろう?」と調べ始めたら、ADHDの可能性があるかのチェックテストをみつけたんです。それをやってみたら全部あてはまる!そこで「僕ってADHDの可能性があるんだ」と気づいたんです。40歳ぐらいのことでしたね。そうかぁって、ものすごいラクになったんですよ。全部自分のせいにして、自分が悪いと思っていたんですよ。でもこれは、特性なんだってわかったので。知るだけですごくラクになりましたね。
※ADHD(注意欠如、多動症)は、「不注意」や「落ち着きのなさ」「衝動性」を主な特徴とする発達障がいの特性の一つ。
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