第二次世界大戦の終結から76年目の夏を迎えた。終戦の日の8月15日にちなみ、戦争体験を次世代に受け継ごうと活動する「若葉台戦争体験を語り継ぐ若葉の会」の海老澤裕介会長(79)に話を聞いた。貴重な語り部が高齢となり、自らの体験を語ることができる人が少なくなる今、「1年でも、2年でも長く続け、戦争を知らない若い世代に戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えたい」とコロナ禍でも発信を継続している。
語り部、高齢に
若葉台戦争体験を語り継ぐ若葉の会は、旧若葉台西中学校の当時の校長から「戦争体験を生徒たちに話してほしい」と依頼を受けた片岡正前会長が老人クラブの会員たちに呼び掛けて発足。2002年から主に若葉台の中学・高校の生徒たちに自らの戦争体験を語り、平和の大切さを訴える活動を行ってきた。これまで延べ70人の戦争体験者が語り部に。現在は平均年齢80代後半の10人が所属し講演を行っている。
「コロナ禍も伝え続ける」
昨年は新型コロナウイルス感染症の蔓延を受け、例年行っている講演会が中止となるものもあったが、若葉台にある星槎高校ではオンライン会議システム・Zoomを用い3人の戦争体験者が講話。生徒代表が直接語り部から話を聞き、各教室にテレビ放送をつないで他の生徒たちはその様子を教室で視聴した。
今年6月には若葉台中学校で戦争体験講話会を実施。終戦の日の8月15日には、若葉台地区センターで5人の戦争体験者が台湾や硫黄島などでの経験を語り、後世に記憶をつないだ。
また、同会では講演内容と生徒の感想文をまとめた戦争体験講話集「若い世代へ 語り継ぐ戦争体験〜平和への思い託して〜」を結成当初から毎年のように発行している。今年は昨年講話したものをまとめて合併号としての発行を検討している。
片岡前会長から今年5月に代表職を受け継いだ海老澤会長は「戦争体験を語れる人が高齢になり、少なくなってきている」と危機感を強める。若葉の会でも発足当初からいた会員の3分の2が亡くなったり、介護施設に入居したりしているという。海老澤会長は「新型コロナの感染を恐れる語り部が講演の場に立つことを躊躇したり、講演自体が見送られるケースも増えている。時代に合わせどう伝えていくかを模索していく時期に来ていると思う」と話す。
「風化させない」強い決意
海老澤会長も戦争体験者の一人で、終戦当時は3歳。幼心に戦争の怖さと終戦後の貧しい日本の生活を噛みしめてきた。
大船出身。父は肺結核で物心つく前に亡くなり、母一人子一人で生活してきた。自宅は海軍の拠点であった横須賀軍港にほど近い場所で、戦時中には将校が自宅に宿泊したことも。空襲警報が鳴ると、母に背負われて家の裏側にあった防空壕に潜った記憶があるという。終戦間際に母とともに山形県真室川町に疎開。農家の納屋に部屋を借りて、「人との交流はなく、母が買い出しの時には一人で待っていた。どこに行っても怖さを感じる時代だった」
食糧難に苦悩
1945年8月15日に終戦を迎えると早々に自宅へ戻ったが、その後も食糧難の苦悩が襲った。大阪で被災した親戚と2世帯で暮らし始めたが、配給の食料だけではまかなえず、母が持っていた反物を物々交換してしのいだ。当時の食事は白米に大根を混ぜた大根飯や、カボチャの茎を摘んでお浸しにしたもの。「皆がひもじい思いをしていた」。学校に上がる頃には食料状況は良くなったが、物の足りない状況は続く。「折れやすい鉛筆やすぐに穴の開く運動靴など粗悪品が多かった」と振り返る。小学1年生の時には墨塗り教科書を使った経験も。
物理系の大学を経て、私学高校の理科教諭や横浜市教職員組合の事務職として勤務。現役時代に若葉の会と出合い、15年ほど前から戦争体験講話集など編集に携わってきた。「伝えようとしなければ戦争の記憶は風化してしまう。1年でも、2年でもできる限り長く続けることを目標に取り組みたい」と力強く語る。
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