戦時下の1944年4月、川平朝清(かびらちょうせい)さん(93)は台北高等学校尋常科から高等科に進学し医師を志すようになった。父・朝平(ちょうへい)さんに強く勧められた。尋常科で文芸部に所属し、文系にひかれていたが、朝平さんに「森鷗外、斎藤茂吉を見よ。2人とも医師であり、立派な文学者ではないか」と諭された。朝清さんは「父は大の軍人、役人嫌いでした」と語る。
高等科は尋常科からの持ち上がりのほかに、他の中学校から受験して入った生徒が加わり、1学年4学級で計約150人いた。文科と理科があり、さらに第1外国語が英語なら甲類、ドイツ語は乙類に分かれた。朝清さんはドイツ語の理科乙類(理乙)に入った。
文系大学生らを徴兵で希望者激減
この半年ほど前、国は学徒出陣に踏み切った。兵力不足を補うため、文系の大学生らを在学途中で徴兵し、出征させた。43年10月、東京・明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。
また、戦時体制に即応させようと、高校の理科教育を拡充させ、文科の定員を従前の3分の1に減らした。文系大学生らが徴兵された影響から、文科の希望者は激減した…
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