アナウンサーの中野淳です。東京大会でパラリンピック初出場となるゴールボール男子日本代表。この1年で急成長し、代表チーム6人のなかで最年少ながら攻守の要となっているのが、21歳の新星、佐野優人選手です。
中学時代に視力が急激に低下し、大好きだった野球を断念。失意のなかで再びスポーツの喜びと、生きる力を与えてくれたのがゴールボールでした。プレーも、仲間づくりも、持ち味の積極性で次々と道を切り開いてきた佐野選手。その原点と、アスリートとして、そして一人の視覚障害のある若者として見据える未来を聞きました。
(2021年5月23日放送の「視覚障害ナビラジオ」をもとに執筆しました)
埼玉県狭山市出身の順天堂大学3年生。1カ月のうち3分の2をナショナルトレーニングセンターで練習に打ち込む佐野選手にリモートでインタビュー
■3カ月で視力が急低下 医師や周囲も理解できず
――佐野選手は子どもの頃から野球に打ち込んでいたそうですが、中学2年生のときに急に視力が下がったそうですね。当時はどんな状況だったのですか
佐野:1日ごとに視力がぐんぐん、ぐんぐん下がっていきまして。もう「次の日起きたら、また悪くなるのかな」と思いながら寝たら、本当に「あれ? きのうより見えてない」っていうのがわかるぐらい目が悪くなっていったんですよ。3カ月で、1.5あった視力が0.01まで下がりましたので。
遠くの得点板が見えなくなったりとか、キャッチボールしてる相手の顔が見えなくなったりとか。硬式ボールだったので、体にボールが当たることもあり、恐怖でもう全く動けない状況になってしまいましたね。
小学1年生から打ち込んだ野球。リトルリーグの強豪チームでプレーし、「野球が生きがい」だった
――大好きな野球ができなくなっていくことの実感は?
佐野:言葉にならないくらいショックでした。でも、野球ができないことよりも、原因が分からない状況が一番苦しかったです。地元の小さい眼科に10軒ぐらい通ったんですけど、どの眼科も「心のせいだよ」とか「ストレスがなくなったら見えるようになるよ」という答えしか返ってこなくて。
家族も「ストレスがなくなれば、この子はもう一回見ることができる、野球ができる」。友達にも「早く復活しろよ」とか、励ましのような声をたくさんかけてもらったんですけど、僕のなかではすごくつらかったですね。
――中学3年生の夏に「レーベル遺伝性視神経症」だと診断されたそうですが、原因が分かったときのお気持ちは?
佐野:うれしかったです。ほっとしました。誰にも言えないんですけど「僕、このまま死ぬのかな…」みたいな感じが続いてたので。病院の先生から「あなたはレーベル病です」って告げられたときは、「あっ、やっぱりこれは病気だったから野球ができなくなったんだ。よかった。やっとみんなにわかってもらえる」っていう安心感につながりましたね。
■閉じこもった日々 スポーツに誘い続けた家族
当時、佐野選手をご家族はどう見守っていたのか。母親の里美さんに当時の様子を伺いました。
里美さん:見えにくくなったとき、一度だけ帰宅してから大泣きしたことがあって、そのときは食事も作らず一緒に泣きました。全国大会に出場する強豪チームで中学2年生からスタメンに入っていて、来年は3年生、次は高校野球につなげていくというところで突然、思いもよらぬことが起きたので、本人は整理ができなかったんだと思います。
しばらく見守ることしかできませんでしたが、優人はとにかくスポーツが好きだったので、視覚障害でもできるスポーツを調べて話してみたり、家族が体験に行ってみたりしました。昔からスポーツで力を認めてもらえたので、何とかそれを軸にして生きていってもらえないかと思いました。優人は最初は見向きもしなかったんですが、ゴールボールをしたときに、「これだ」っていう感触があって、「また行く!次の練習会にも行くから」と言って、表情が全然違ったんです。
今回、取材があるということで久しぶりに中学のときのいろんなものを見返しました。すると卒業生のメッセージで将来の夢に「パラリンピアン」って書いていたので、私自身もまさかっていうんですかね、本当に夢のようなことが実現したんだなと思っているところです。
大学の入学式で母親の里美さん(右)と。佐野選手の病気が分かったとき、里美さんは平原綾香さんの「スタートライン」という曲をよく流していたという。佐野選手は塞ぎ込んでいたが、今では佐野選手が試合前にも聞くお気に入りの曲に
――家族が佐野選手をいろんなスポーツに誘ってくれた当時、どう受け止めていましたか?
佐野:陸上や水泳を調べたり、ブラインドサッカーの体験に行ったという話を僕に持ちかけてくれたりしたんですけど、僕は今も昔も頑固だったので、「野球ができないなら、もうスポーツはしない」っていう一点張りでした。
親がすごく楽しそうに話してくれても、「よかったね。そういうすごい人たちもいるんだね。まあ俺はやらないけど」みたいな。シャットアウトしてしまう時期もありました。親もあきれて、「もうそれなら、私たちも行かないから」ってなるくらい断り続けました。
■「スポーツはできないところから始まる」が原動力に
――なぜ気持ちが変わったのでしょう?
佐野:病気を見つけてくれた大学病院の先生からゴールボールを紹介してもらったんです。「暇だったら、試しに家族で見に行ってみたら?」という一声がきっかけで、「じゃあもうここまで親も病院の先生もセッティングしてくれたなら、一回だけでいいから見に行ってみるか」というところから、ゴールボールと出会いましたね。
――断り続けていたなかで、ようやく足を運んだスポーツがゴールボールだったと。初めて触れたときの気持ちは?
佐野:僕は視力が落ちたといっても全く見えないわけではなかったんですね。でも「アイシェード」(見える条件をそろえるために装着する目隠し)をつけたら視界が真っ暗になって、全く動けなくなっちゃって。そうしたなかで、僕が見た人たちはコートの中を自由に走り回ったり、ボールを投げたり、守ったりしていて、「あっ、できるんだ。じゃあ俺もできるんじゃないか」と思いました。
スポーツってやっぱりできないところから始まるんだっていう、少年野球を始めたときと同じような感覚が入ってきて、今まで落ち込んでいた自分から脱皮した感じがしました
。
野球の経験を生かした守備力に定評のある佐野選手。パラ延期の1年間でシュートにも磨きをかけ、2月のジャパンパラ競技大会では得点力でも活躍を見せた
■音でボールを“見る” 野球との共通点
――ゴールボールは、視覚障害のある選手3人がチームになって、鈴の入ったボールを相手ゴールに向かって投げあい、得点を競います。どんなところに魅力を感じていますか?
佐野:僕が初めに「このスポーツやりたい」って思ったきっかけは、純粋にかっこよくて。野球とかサッカーとかメジャーなスポーツよりも「このスポーツかっこいいな」って思ったんです。
ボールを転がして投げるんですけど、ボーリングのように投げるのではなくて、自分が回転して、その遠心力をそのままボールの勢いに乗せて投げたり。ボールに対して、体を張って痛いながらも声をあげて守る姿を見ると、「ものすごくこのスポーツかっこいいな」っていうところが一番の魅力かなと思います。
――野球の経験は生きています?
佐野:僕の中ではディフェンスがすごく野球に似てるなと感じますね。野球をやっていた時は、セカンドやショートを守っていたので、センターに抜けそうな打球に対して、一瞬、目を離して思いっきり走って、自分がボールの真ん中に入って取ることを心がけていました。
ゴールボールでも、相手が投げた位置と、自分たちのゴールに向かってくるところを線で結んで取ればいい。“見えてない”んですけど、音で聞いて“見える”感じがするんです。「あ、こう来るだろうな」って瞬時に判断できる。野球でいうフライの落下地点や、ゴロのカーンって打たれたときの形や勢いを読むところがすごく似ているので、野球を意識してディフェンス力がすごく向上したと思います。
■プレーも仲間づくりも“アグレッシブ” 自らチーム設立
――佐野選手は高校から特別支援学校に入って、卒業後に順天堂大学に進学しました。ゴールボールの練習環境を大学でも作ろうと、障害のない学生を巻き込んで自らチームを作られたそうですね。
佐野:大学に入る前、ゴールボールの合宿に順天堂大学の(障害のない)学生さんたちがボランティアとして来てくださって、「こんな熱心な大学生もいるんだ」って感動したんです。それで大学に入って、「ゴールボールやりたい人いますか?」って声をかけてメンバーを募って、チームを立ち上げました。順天堂大学とゴールボール協会が連携を結んで、ゴールボールの用具を大学に購入していただいたので、練習ができる環境も整えてもらいました。
――なぜ自らメンバーも募って、大学にチームを作りたいと思ったのですか?
佐野:視覚障害というのも含めて、僕一人では何もできない部分がありましたので、一緒に練習してくれる仲間が欲しいことが一つでした。すると体育学部の学部長の先生が「仲間を大切にしろ」と何度も言ってくれて。「自分が先頭をきって動いて、友達を引っ張れ。それができたときに、いろいろ変わってくるから」と声をかけてもらってからは、メンバーをたくさん集めようという気持ちで取り組みました。今では僕がいなくても、みんなでゴールボールの練習してくれています(笑)
佐野選手以外のメンバーは視覚障害がない人たちですが、すっかりゴールボールに夢中になっているそう。その一人、渡辺篤郎さんの話です。
渡辺:最初は興味本位で出席して、そこから「暇ならやらない?」みたいに誘われてスタートしました。
(視界が真っ暗な中で行う)ゴールボールでの一番の発見は、「声をかけてもらえるって非常に安心するんだな」ということです。声がないと自分がどこにいるのかも分からないですし、声をかけてもらえることで自分がどこにいるか分かる。味方がいるのも、声があることによって理解できて、ほっとするというか。見えてないところで人とつながっていると感じられるスポーツなのかな。
その点、優人くんは最初からぐいぐいくる人だったので(笑)、そういう人がうまくなるスポーツでもあるのかなと思いますね。自分から何かやろうというアグレッシブな子なので。初のパラリンピックで、どれだけ世界に通用するか見ていきたいなって思います。
――渡辺さんが「ぐいぐいくる」とおっしゃっていますけど、佐野選手はもともと積極的な性格だったんですか?
佐野:そうですね。目立ちたがり屋なのか、積極的なのか分からないですけど、よく「行動力すごいよね」って言われますが、僕の中では別にすごいことではないです。声をかけるのは無料なので(笑)。
やはりゴールボールというスポーツがまだまだマイナーで、自分から「やりたいです」って言ってくれる人がいるようなスポーツではないので、僕がこのスポーツの魅力をどう伝えられるかが、継続してやってもらう鍵を握るということをすごく意識して大学に入りました。自分が誘うんだったら、自分が責任を持って、相手を楽しませないといけないと思いまして。相手に何を与えられるかというのは、いつも考えてますね。
佐野選手と練習している大学のチームメート。この日のように佐野選手が合宿などで不在の日でも練習に励む。一番左でボールを持っているのが渡辺さん
■延期で“別人”に 東京の先を見据える
――現在ゴールボールの日本代表として、日々、練習に励んでいらっしゃいますが、東京パラリンピックが延期になってからのご自身の成長をどう感じていますか?
佐野:僕にとって大きな1年になったなと思います。本当に1年前と比べると、比べ物にならないくらいパワーがつきましたし、この1年があったかなかったかでは、本当に違うなって思います。
その成長ぶりについて、男子チームを指揮する日本代表の市川喬一総監督にお話を聞きました。
佐野選手を指導する市川総監督。体格とパワーで勝る海外勢に対して、「いかに頭を使ってテクニックで勝つか、伝授している」。
市川:去年(2020年)10月から彼の指導を行っているんですが、それまでとは別人のレベルに達してきていると思います。今まで2番手、3番手と言われていたのが、大会が延期になってから最も伸びた選手かな。本人の中でも自信につながっているのではと思います。ちょっとまじめすぎたところもあるし、型にはめたがるタイプだったんですけど、“自分独自のスタイル”をつくることを徹底的に指導してきましたので、少し花開いているんじゃないかなと思ってますね。
できないことを一生懸命やり続けて、できたら自分のものに変えていく。そしてさらにそれを発展させていくタイプです。僕から見たらまだ原石の状態で、世界の本当の厳しさをまだ見てないし、東京パラリンピックでどれだけ花開けるか、そして何を感じて大会を終えられるかというところで、今後、彼の成長する部分は変わるんじゃないかなと思います。
――佐野選手、監督の言葉いかがですか?
佐野:ゴールボールをやって5年ですけど、まじめに積み上げてきた土台のうえに、去年の10月以降、いろいろなゴールボールの理論を知って、すごく変わることができました。自信があるまま世界にぶつかりたいっていう強い思いがありますが、世界の強烈な威圧や緊張感という経験がまだまだないので、大舞台に立ったときに自分のベストパフォーマンスを出せるかどうかだと思います。
――現在21歳。ゴールボールの選手としてどんな目標を持って取り組んでますか?
佐野:東京パラリンピックではもちろん金メダルを目指しますけど、まずは3位でもメダルを獲得する、そこからだと思います。今回は開催国枠で出場させてもらうんですけど、2024年のパリ大会、28年のロサンゼルス大会で、今以上に僕が主体となって、今度は実力でパラリンピックをつかみ取って、金メダルを獲り続けられるようなチームになっていきたいと思います。
■同じ境遇の子どもたちに伝えたい
――競技を通してどんなことを伝えたいですか?
佐野:僕が競技を全力でやっている姿を、特に障害のある子どもたちに届けたいです。高校生から特別支援学校に入ったのですが、障害があることでなかなか自分に自信をもてなかったり、やりたいことができなかったり、あきらめてしまったりする子が多くて、僕もそれに似た感情を一度、持ちました。でも、僕はスポーツによって生きがいを見つけました。その経験を生かして、一人でも多くの人に勇気を与えられる人間になれたらなって思います。
大学では中学校・高校の保健体育の教員免許と、特別支援学校の教員免許も取得できるように勉強しています。将来、盲学校に戻ってゴールボールの普及や、同じように目が見えないことでつらい思いをした子どもたちと一緒にいろんなことに取り組めるような先生になりたいです。
<インタビューを終えて>
「平原綾香さんのスタートライン、流してもらえませんかね?」。収録後に、持ち味の積極性で音楽もリクエストしてくださった佐野選手。明るく、人なつこい人柄が、多くの仲間を引き寄せてきたんだと感じました。野球の経験はもちろん、物おじせずにコミュニケーションをとる姿勢が、ゴールボールという声かけが欠かせない競技だからこそ生かされ、自身の持ち味を最大限発揮できるスポーツに出会えたのかもしれません。
当初は医師に病気を発見してもらえず、ロールモデルもいないなか、周囲を“巻き込む力”で道を切り開いてきた佐野選手。教師という夢も語ってくれたように、佐野選手の今後の活躍が、子どもたちにとって、スポーツに限らず熱中できるものや仲間を見つける希望になることを願ってやみません。
中野 淳
平成18年入局。
パラスポーツとの出会いは、プライベートで訪れたロンドンパラリンピック。
スポーツ番組のキャスターとして、数多くのパラアスリートを取材し、リオパラリンピックとピョンチャンパラリンピックでは開会式の実況などを担当。
2017年4月から「ハートネットTV」のキャスターとして、福祉とスポーツ双方の視点からの発信を続ける。
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