日本各地で大雨による甚大な被害が発生し、心が痛む。一方、今は全国のどこで水害が起こってもおかしくない時代だ。
コロナ禍で移動制限が続いたこともあり、私は拠点にする愛知県で、足元の川を見つめ直そうと思い立った。
愛知県東部を南北に流れる「豊川(とよがわ)」は、下流に昔ながらの「霞堤(かすみてい)」という治水構造が残る一級河川。一方、上流ではダムの建設工事が5年後の完成を目指して進んでいる。
国は、霞堤もダムも生かした「流域治水」に取り組むよう促している。しかし、実際には長い歴史と複雑な権利関係があり、今がある。その現状や住民の思いを現地ルポで伝えたい。
豊川は愛知県の北東部、いわゆる「奥三河」を源流とし、豊橋市や豊川(とよかわ)市の市街地などを流れて三河湾に注ぐ。長さ約77kmの流域に住むのは22万人ほどだ。
愛知県には「豊」の付く地名が多い。中でも代表的なのは豊田市だろう。豊田を流れるのは県中部の一級河川、矢作川(やはぎがわ)だ。しかし、豊川流域にもトヨタ系の企業がひしめく。もちろん農業も盛んで、豊川は文字通り産業の「豊かさ」を支える川だと言える。
しかし、豊川の特徴は平野部で大きく蛇行する流れだ。そのため頻繁に洪水を繰り返し、流域の人々を悩ませてきた。古来からさまざまな洪水対策が講じられた。その一つが、江戸時代に造られたとされる不連続な堤防「霞堤」なのだ。
下流の城下町守るため築かれた「霞堤」
霞堤の目的は、上流で水をあえて溢れさせ、下流を守ること。江戸時代の豊川下流には吉田城があった。この城下町を守るため、上流に霞堤が造られた。
現在、「豊橋公園」となっている吉田城址から数百メートル。S字に蛇行する川に囲まれた一帯は「牛川」の霞堤地区と呼ばれる。
豊橋市役所の白いビルや、石垣の上に復元された隅櫓を見ながら川沿いの遊歩道を歩いた。やがてこんもりとした丘のような地形が現れる。上にはコンクリートの舗装道路が走っているので、堤防だと分かる。しかしよく見ると、堤防道路は途中から地面に下がり、堤防そのものも斜めの下り坂となって途絶えていた。まさに霞の中に消えてしまうような堤防、それが霞堤の意味だと実感した。
豊川の増水時は、この堤防の途切れたところから水が引き込まれる。引き込まれる先の牛川地区は、見渡す限りの田畑。ところどころ、ビニールハウスや事業所らしき建物は見える。一番大きなものは豊橋市上下水道局などの庁舎で、1階部分はほとんど柱だけの駐車場。「浸かる」ことを前提とした造りだ。
とはいえ、田畑を持つ人たちも雨のたびに気が気でないだろう。そう思って農作業をしていた人に聞いてみた。
「昔はよく浸かったけれど、今はめったにないね」
意外に楽観的な答えが返ってきた。「霞堤? 何のこと?」という人もいた。彼らが霞堤を意識しない理由は「放水路ができたから」。1965年に完成した「豊川放水路」のことだ。
全長6.6キロに渡って造った人口の川。蛇行する豊川の途中から、一直線に海に向かうのが豊川放水路だ。これによって、上流から流れてくる水の4割が“ショートカット”されるようになった。
放水路建設に合わせ、霞堤は放水路のある右岸側がすべて締め切られた。途切れていた堤防と堤防の間をつなぎ合わせた、ということだ。
一方の左岸側は締め切られず、4つの霞堤が残った。牛川地区はそのうちの一つだが、最下流で放水路の効果を受ける位置関係にある。
だが、この放水路による安心感は、上流をたどるに従ってなくなり、霞堤が残ることによる危機感に変わっていく。
上流ほど増す危機感、伝承に課題も
牛川地区から直線距離で北へ約10キロ。豊川市の「金沢」地区にも霞堤が残る。牛川と同様に田畑は広がっている。しかし、住家は断然に多い。川沿いの平野部に住んでいるのは300世帯以上になる。にもかかわらず、今も残る豊川の霞堤で最上流のため、増水したら真っ先にここから水があふれるのだ。
「私が高校生の頃の水害では、この辺は川になって、牛が流されていったのをよく覚えている。実家も床上浸水し、水が引いたあとも片付けが大変だったよ」
こう振り返るのは、金沢地区でナシ畑を営む小山恵嗣(しげじ)さん(68)。最も強烈に残っている水害の記憶。それは豊川で戦後最大とされている1969(昭和44)年の洪水と思われる。
豊川の基準地点で水位や流量を観測する石田水位流量観測所で、毎秒4569立方メートルの流量を観測。既に豊川放水路が完成し、霞堤があったにも関わらず、決壊したのはさらに数キロ上流の堤防だった。
国は放水路の効果は一定程度あったとした上で、決壊を教訓に本川の河川整備を急ぐ。それでも3、4年おきに洪水は起こり、近年では2011(平成23)年に石田観測所地点のピーク水位が戦後2番目の7.61メートルを記録、70棟が床上・床下浸水した。金沢の霞堤は2、3年ごとに浸水が繰り返されてきた。
小山さんは当たり前のように受ける被害に「下流を守るためには仕方ない、という時代はもう終わりにしたい」と訴えた。
地元としては長年、豊川水系を管理する国と愛知県、豊川市や豊橋市を交えて協議を続けてきた。地元の要望も踏まえて国は2001(平成13)年、豊川水系河川整備計画を策定。霞堤には「小堤」を築く方針が示された。
霞堤をすべて今の堤防高さで締め切ると、豊川全体の洪水時の水位が上昇してしまう。すると、どこかで堤防が決壊するなどの危険性が増す。だから、まずは現状の堤防が耐えられる最高の水位(計画高水)よりも1メートルほど低い堤防を築く。それが「小堤」のイメージだ。
霞堤は完全に締め切られるわけではないが、これまで2年に1度程度だった浸水は「10年に1度ぐらいには減る」と国交省中部地方整備局豊橋河川事務所は説明する。
2016年から始まった国や地元関係者による「豊川霞堤地区浸水被害軽減対策協議会」でも、国はハード対策として小堤整備を第一に挙げてきた。しかし、そのスケジュールは後述する「設楽(したら)ダム」の完成と連動するとも主張。それはあと5年後か、それ以降になるかもしれない。
「ダムと小堤ができるまではハードでは守られないと思って、ソフト対策で守るしかない。しかし、地元でもその危機感を周知するのが難しい。市のハザードマップはあるが、もっと一人ひとりにどれだけリスクがあって、どこにどう避難すればいいかを分かってもらわなければ」と小山さん。
昨今、個人個人の避難行動を時系列に想定しておく「マイタイムライン」の作成などが各地で行われている。そうしたきめ細かい防災活動を地元が主体となりつつ、行政の支援によって加速したいのだと小山さんは強調した。
きめ細かい基準、住民への情報提供に課題
霞堤地区には、増水時に他の地域よりも早い段階で避難指示などが出される基準がある。具体的には、石田観測所の水位が4.7メートルに達し、さらに水位が上昇している場合は、金沢地区に避難準備・高齢者等避難開始(レベル3)が発令。石田で5.7メートルになったら避難指示(レベル4)が出る。このとき、堤防のある右岸ではまだレベル3にも達しない。
ただ、こうした情報を住民が的確に得られるかどうかはまた別の話だ。
金沢地区で農業を営む小野田泰博さん(43)は、霞堤の間近に代々の家を構える。建物は1階がピロティの物置きスペースとなっており、2011年の洪水時は農機具や野菜がすべてダメになった。
2018年にも台風が接近し、同じように警戒した。幸い大きな被害はなかったが、川の増水や避難に関する情報はうまく得られなかった。また、自宅前の県道が冠水していたので市に報告しても、交通規制などがされなかったことに不信感を持った。
その後、情報公開請求などをして自ら検証すると、レベル3や4(当時は避難勧告)の発令が本来の判断水位を超えてから50分ほど遅れていた。当時の避難指示の基準である石田の水位6.2メートルも超え、最終的には7.26メートルにまで達したが、避難指示は最後まで発令されなかった。この判断の是非を豊川市に問いただしても、「問題はなかった」と言われている。
しかし、小野田さんは納得できていない。市の内部や、県道を管理する愛知県を含めて役割分担や態勢が整っていないと感じた。連携が疎かな中で、真っ先に浸水を受けるはずの霞堤地区の住民が「放置されている」気がしてならない。
「行政の中でも、霞堤の意味を理解している職員が少なくなっているのではないか。役所に頼らず自分たちでも情報を得たいのに、積極的に情報を公開してもらえず、スマホなどから情報にアクセスする仕組みも不十分だ」と小野田さんは指摘する。
国交省は金沢霞堤内に新たな水位監視用のカメラや簡易水位計を設置。愛知県も道路巡視や通行止めのルールなどを地区ごとに定めた。しかしコロナ禍もあり、住民を交えた活用や訓練など、実際の運用はこれからだ。
小野田さんの家はハザードマップ上、最大の被害規模では5メートル以上浸水し、家屋倒壊の可能性もある地域となっている。
「こんなところに住まなければいいと言われるかもしれない。でも、自分たちの世代にとってはたまたまここに霞堤があり、先に右岸が閉じられてしまったといった歴史がある。移転などの支援が具体的に何もない状況で、簡単に動けない」
先が見えない中、毎年のように各地で異常な降水が続き、水害の激甚化は進む。
「もう時間がないんだが…」
小山さんも小野田さんも、そう言って顔をしかめた。
上流部で着々と進む設楽ダム建設
さらに上流をたどると、水は青く、山の緑も深くなる。その最上流部、設楽町の山深くに設楽ダムが建設中だ。
「あの辺りがダムの本体になるところですよ」
地元に半世紀以上暮らす伊奈紘さん(76)は、自宅から車で10分もかからない現場周辺を案内してくれた。
工事用の塀で仕切られた道路の下は、切り崩した茶色い山肌がむき出しになっている。その先の谷間の部分が、いずれコンクリートで塞がれるダムサイトだという。堰き止められた豊川の水はダム湖となり、自分たちが立っている足元の近くまで水に満たされると言われ、ようやくイメージができた。
なぜ今、ダムなのか。その答えを知るには、豊川の歴史が洪水と同時に渇水の歴史でもあることを知らなければならない。
河川勾配が急峻で、水はすぐ海に流れていく。広大とは言えない流域で農工業が発達し、戦後は水道用水や農業用水、工業用水の需要が増え続けた。昭和50年代から平成前半にかけては、ほぼ毎年のように渇水による取水制限が行われた。
一方、利水は豊川支流の宇連川にある利水目的の宇連ダム、大島ダム、大野ダム(頭首工)に頼っており、豊川の本流にダムはなかった。
こうした中で生まれたのが設楽ダムの建設構想だった。1973年以降、国(旧建設省)と愛知県が地元に計画を示し、町を二分する議論の末、2009年には建設同意の協定が結ばれた。民主党政権下で一時事業は凍結されたが、紆余曲折を経て建設が決定。ダム湖に沈む124戸の移転は既に終わり、2036年度の完成を目指して工事が進められている。建設費は約2400億円とされている。
小中学校で理科の教師もしていた伊奈さんは、現場の地質の構成を調べ、ダムの地盤としては弱いと訴え続けてきた。国交省は問題ないとしているが、伊奈さんは工事の始まった現場を観察しながら今も検証を続けている。
設楽ダムの治水機能は「わずか」か
治水に関しても、その効果を疑問視する。「設楽ダムは上流にあり過ぎて、流域の水をそれほど多く集められない。そもそもダム本体の貯水量に対して洪水調整の割合が少なく、治水の効果はわずかなものだ」と指摘する。どういうことなのだろうか。
設楽ダムはいわゆる多目的ダムだが、有効貯水容量(ダム本体の堆砂を除いた貯水容量)9200万立方メートルに対して、治水目的である洪水調整容量は約2割の1900万立方メートル。残り7300万立方メートルは渇水対策や河川の環境改善にあてるとする利水容量だ。
洪水調節機能に関しては、河川の流量(立方メートル毎秒)でも計算する。
現在、最大の被害想定である150年に1回の大洪水時は、基準地点である石田観測所地点での河川流量がピークで7100立方メートル毎秒となる。この流量をどう調整するかが洪水対策の考え方で、1972(昭和46)年の豊川水系工事実施基本計画では7100立方メートル毎秒の流量をダムによる調節で3000立方メートル毎秒、河道への配分で4100立方メートル毎秒としていた。
ところがその後、河川法の改正に伴い策定された1999(平成11)年の豊川水系河川整備基本方針では、前者の3000立方メートル毎秒を「流域内洪水調節施設」による調節流量という表現に変えた。ダムだけではない、ということだ。
一方、設楽ダム計画では最終的に同条件の洪水調節流量が1250立方メートル毎秒とされた。河川流量全体の7100立方メートル毎秒からすれば18%弱だ。
全体のうち、設楽ダムによって1250立方メートル毎秒、河道への配分によって4100立方メートル毎秒を調整するとすれば、残る1750立方メートル毎秒は何で調整するのか。豊橋河川事務所に問い合わせると「今後、具体的な検討を進めていく予定」との回答だった。つまり、最大の洪水時の対応は、ダムができたとしてもまだ十分ではないのだ。これでは伊奈さんが疑念を抱くのも無理はないだろう。
それでも、現時点で豊川水系には治水ダムがないため、設楽ダムがないよりは、あった方がいいという見方もできる。
また今回、国が進める流域治水プロジェクトに伴って、利水ダムを事前放流によって洪水調節に活用する方針となった。豊川水系の3つの利水ダム(宇連ダム、大島ダム、大野頭首工)の総有効貯水容量は約4060万立方メートル。このうち12%に当たる約490万立方メートルが治水用に確保できることになった。だが、これは設楽ダムの洪水調整容量の4分の1程度で、やはり「わずか」と見ざるを得ない。
こうした流動的な部分もあるが、設楽ダムが完成するときには霞堤地区の増水も抑えられる。だから霞堤を小堤で仕切ろうというのが現状の計画なのだ。
「本来はダムに頼らず、霞堤の活用を」
「国交省はダムを造りたい、地元は霞堤を締め切りたい。小堤はその妥協点ということなのでしょう」
こう解釈するのは、河川工学の第一人者で、設楽ダムや霞堤も研究対象としてきた新潟大学の大熊孝名誉教授だ。
「ダムができる以上、完成してから本当に治水の効果があるかを検証して、小堤もそこから必要性を判断してほしい。霞堤は自然と人間の長い関係の中で残してきた、歴史的価値のあるもの。単純に閉じていいのか、地元の人にもよく議論してほしい」
その上で、「本来はダムに頼らず、霞堤のような遊水地をしっかり残すのが今の時代に考えるべき治水のはず。それと逆行することを『流域治水』という言葉でやるなら、目くらましに過ぎない」と厳しく指摘する。
ダムについては、昨年の球磨川の氾濫でこれまでの不要論がリセットされた感もある。しかし豊川では、少なくとも設楽ダムできるまでの5年間は、ダムに頼らず最大限の対策を急がなければならないのが現実だ。その成否を、引き続き現場でしっかりと見届けていきたい。
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