【フェンシング】徳南堅太、リオ五輪で太田雄貴から託され 2度目の五輪でサーブル初のメダルを(4years.) – Yahoo!ニュース – Yahoo!ニュース

【フェンシング】徳南堅太、リオ五輪で太田雄貴から託され-2度目の五輪でサーブル初のメダルを(4years.)-–-yahoo!ニュース-–-yahoo!ニュース 基本問題

4years.

リオデジャネイロオリンピックでフェンシング男子サーブル個人に出場した徳南(とくなん)堅太(33、デロイト トーマツ コンサルティング)は、続く自身2度目のオリンピックを前にして複雑な思いだった。「今大会は団体戦のみの出場となり、望んだ結果にはなりませんでした。個人・団体ともに出場を狙っていただけに悔しいですが、その思いを東京大会にぶつけたいと思います」。団体戦ではポイントゲッターとしてチームを支え、サーブル初のメダルを目指している。

剣道からフェンシングへ

徳南のフェンシングとの出会いは偶然だった。中学校3年間は剣道一筋。2段まで取得し、県大会では団体2位にまで勝ち上がった。武生商業高校 (現・武生商工高校、福井)に進む際も、剣道部があることは事前に調べていた。しかしいざ入学してみると、剣道部の部室こそあったが部員はゼロ。剣道に打ち込むと決めていた徳南は途方に暮れたが、その時にフェンシング部顧問の諸江克昭先生に誘われた。元々、フェンシングの強豪校であることは知っていた。同級生の見延和靖(現・NEXUS)や先輩からも誘いを受ける中で、次第に気持ちが固まった。

元剣道部のフェンサーも多く、徳南自身も「同じ剣を使う競技」というところに興味を感じていたが、実際にやってみると勝手が違う。その一方で、左が軸になる剣道経験者ということから、諸江先生に「身長もあるし、左利きで始めよう」と言われ、今まで養ってきたことをここで生かせられるのは素直にうれしかった。フルーレでフェンシングを始め、全国制覇を目指す仲間たちと一緒にどんどんフェンシングにのめり込んでいき、「そのころにはもう、やめたくてもやめられない状況になっていましたね」と笑いながら当時を振り返る。しかし高校3年間の最高成績は、選抜大会も国体も団体3位。日本一の夢は大学へ持ち越しになった。

別々の大学でも、高校時代の仲間と日本一を

大学はフェンシングの強豪校で保健体育の教員免許が取得できる、というところから日本体育大学に進学。「体育教師になりたい」という思いとはまた別軸で、授業で学ぶスポーツバイオメカニクスやスポーツ心理などは競技者としても学びがあった。また1つ下に体操の内村航平(ジョイカル)など、同じ校舎で学ぶ学生の中には世界の舞台で活躍している選手も多くおり、徳南も同じアスリートとして自然と目標を高く持つようになっていったという。

日体大に進学した当初はフルーレをメインにしていたが、1年生の秋に開催された東京都ジュニア大会にてサーブルで2位となり、U-20日本代表のきっかけとなった。「僕らの代はフルーレの層が厚かったですし、1本釣りじゃないですけど、どちらかに絞った方がいいんじゃないかと思うようになりました」。そこからサーブル1本に絞ったが、今でもその選択に後悔はない。

「性格もあると思うんですよ。サーブルはものすごく速くて短期決戦。フルーレとエペが突きだけなのに対してサーブルには斬りもあるので、圧力をかけなくても有効面に触れれば勝てる。そのスピード感とかダイナミックさに魅了されました」

大学時代に今も忘れられない試合がある。日本一を決するインカレは仲間たちと気持ちひとつで挑む大会だ。1年生の時はインカレに続く関東インカレで敗退。サーブルに転向して挑んだ2年生では序盤で敗退。3年生では2位まで上りつめたが、高校時代の同期である見延(当時・法政大)がエペで優勝、同じく阪野弘和(当時・専修大)がフルーレで優勝し、同期3人での優勝は果たせなかった。「3人そろって優勝できたらなおさらうれしかったんですけど、自分は最後に勝てなくて、『あと1回しかチャンスがない』と自分を奮い立たせていました」。その思いの通り、最後のインカレでは優勝できた。

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