「家にいたいならいればいいやん」母の覚悟が昼夜逆転の不登校児を – auone.jp

「家にいたいならいればいいやん」母の覚悟が昼夜逆転の不登校児を-–-auone.jp 花のつくりとはたらき

現在、東京大学理科一類2年生の中村優斗さんは、中学時代に不登校気味だった。没頭したのは、ゲーム。昼夜逆転の日々だった。成績は当然、「完全に下のグループ」。だが高校から巻き返し、一浪の末に東大に合格。「感謝するのはやっぱり両親です。僕を見放さなかった」。完全に勉強のやる気を失った息子の心に深く突き刺さった母親の愛情あふれる言葉とは――。

※本稿は、ドラゴン桜「一発逆転」プロジェクト&東大カルペ・ディエム『ドラゴン桜「一発逆転」の育て方』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

不登校という失敗した経験があったから真摯になった

「今思うと、不登校の経験は無駄ではありませんでした。中学のときに学校にも行かずネットゲームに没頭した時間があったから、学校や友達の大切さもわかったし、ゲームへの執着も薄らぎました」

ドラゴン桜「一発逆転」プロジェクト&東大カルペ・ディエム『ドラゴン桜「一発逆転」の育て方』(プレジデント社)

ドラゴン桜「一発逆転」プロジェクト&東大カルペ・ディエム『ドラゴン桜「一発逆転」の育て方』(プレジデント社)

現在、東京大学理科一類2年生の中村優斗(ゆうと)さんは、自分には失敗した経験があったからこそ今があると語る。そしてその失敗から「逆転」できたのは、両親のおかげでもあると。

「感謝するのはやっぱり両親ですね。不登校気味の僕を見放さなかった。『好きにしろ』と放っておくこともできたと思うんですが、いい距離感で関わってくれた」

喜びの日から1年半、大学2年生になった優斗さんは、東京で一人暮らしをしながら学生生活を送っている。多才な学生が集まる東大は毎日が刺激の連続だという。大学生になってネットゲームも復活したのかと思ったら、「ほとんどしてません」。ゲームの世界のつながりより、大学のリアルなつながりのほうがはるかに面白いのだとか。

「勉強するのが面倒くさい」ゲームにはまって不登校気味に

中学受験を経て入学した大阪教育大学附属池田中学校の定期テストの結果を見て、優斗さんは焦った。

「周りの子と比べて思ったより点数がとれなかったんですよ。どんなに頑張っても僕は上位に入ることはできなかった。だんだん『勉強するのがもう面倒くさい』と思うようになっていました」(優斗さん)

成績が伸びないと、やる気も失せる一方だった。心の穴を埋めたのがネットゲームだ。

中村優斗さん

写真=本人提供

中学に入ってから親に買ってもらったノートパソコンを開けば、楽しい世界が待っている。画面の中での対戦に夢中になり、寝る時間はどんどん遅くなっていた。そして学校に行かない日が増え、通っていた塾も休みがちになった。

ベッドに潜り込む頃、空はすっかり明るくなっていた。「学校に行かなあかんよ」という母親の声はスルーして眠り、目が覚めるのは夕方近くだ。お腹を満たしたらパソコンを立ち上げ、そのままゲームに没頭する。そして気づけば、再び、朝……。

昼夜逆転の生活を送る日が増えていった。中学2年生から徐々に欠席が増え、中学3年生になると学校に行くのは週2〜3日。不登校に近い状態だった。

「頑張って学校に行った日も授業中はほぼ寝てました。夜に起きているので昼間は単純に眠い」

「ああ、そう。家にいたいならいればいいやん」と見守る母

この状況に誰よりも胸を痛めていたのは母・紋子(あやこ)さんである。

「当時のことを考えると、中学で必死に喰らいついても結果が出なくて、しんどかったやろなと思います。『起きなさい』と布団をはがしたり、『途中からでも行きなさい』と、車で学校に送っていたときもありました。気持ちが後ろに向いているときに、ああせいこうせいと言っても無理なので、最終的には、学校を休むと言ってきたら『ああ、そう。家にいたいならいればいいやん』と見守っていました」

優斗さんに、唯一、約束させたのは定期試験を受けることだった。テストさえちゃんと受けていれば、次のステップにつなげられると考えたからだ。優斗さんが思い返して言う。

「授業をまともに受けてないので、結果はひどかったですね。特に英語がダメで、30点台ということもありました。『こんな点数を取ってしまった』と落ち込みましたが、それでやる気が起きるわけではない。クラスのなかでは完全に下のグループにいました」

優斗さんが通っていた学校は中高一貫校だが、内部進学には規定があった。高校に上がれるのは160人中120人。およそ1クラス分の生徒がふるい落とされてしまう。

成績は下から数えたほうが早く、出席日数は半分程度の優斗さんが上に行ける可能性は限りなくゼロに近い。ずるずると過ごし、附属高校に進学できないことが決定的になった。

地に堕ちた中学時代、高校でいかに復活し東大に逆転合格できたのか

附属高校に入れなかった優斗さんが通い始めたのは大阪の箕面自由学園高校だ。優斗さんが小学生のときに通っていたのが箕面自由学園の小学校だったこともあり安心感があった。探してきたのは紋子さんだ。

「いわゆる進学校ではないけれど、学校の様子をわかっているし、何より家から近かったから朝も遅くまで寝ていられる。優斗に箕面自由学園の名前を告げたら素直に『いいよ』って。反発するやろなと構えていたので、拍子抜けするぐらいでした」(紋子さん)

もっとも、親に言われるがままに進路を決めたわけではなく、優斗さんなりに考えた上での結論だった。

決め手になったのは、スーパー特進コースの存在だ。難関大学を目指すためのカリキュラムが綿密に組まれ、大学受験に向けてはそれにのっかるだけで済む。予備校の選定など自主的に受験体制を整えなければならない公立高校よりも効率がいいと考えた。

なぜそのように勉強への気持ちを切り替えられたのか。

中村優斗さん

写真=本人提供

聞けば、優斗さんには小さい頃からの夢があった。パイロットになることだ。好きな航空会社はANA。大空を駆け回る飛行機に憧れ、操縦かんを握ってみたいとずっと思ってきた。

「中学はさんざんサボったし、勉強をしない生活は中学までで一度リセットしよう。高校からは勉強がんばらんと、って思っていました。中学の頃は大学受験がまだ遠く、スイッチが入らなかったけれど、高校生になったらもうのんびりはしていられない。ここで置いていかれたら終わりだという危機感もあって、ようやく勉強に向き合う気持ちになれたんです」(優斗さん)

そんな気持ちの変化には、両親の考えも影響していた。

「大学はいわば人生の第1のゴール。自分がやりたいことをかなえられる大学に行ってほしい。夢をかなえるための大学に入れれば、そこに至るまでの道のりはどんな道だって構わない」

ことあるごとにそう伝えてきたのである。

「パイロットになって操縦かんを握る」わが子の夢を応援

昔に比べて、学歴社会の傾向は薄らいできたとはいえ、特定の業種には、有名大学を卒業したほうが就きやすい。パイロットもその一つだ。パイロットになるためには大学進学は欠かせないステップ。大手航空会社の自社養成の場合、4年制大学以上の学歴は必須で、難関大学からの採用が多いという。航空大学校への進学も4年制以上の大学に2年以上在学して単位を取る必要がある。

物心ついたときから飛行機が大好きで、空港にも何度も家族で足を運んだ。滑走路に離着陸する飛行機を食い入るように見つめる姿を知っているからこそ紋子さんは、夢をかなえるには大学が大事だということをくり返してきたのだ。

高校生になった優斗さんの生活は、紋子さんから見るとそれまでとは別人のようだった。

「一番大きな変化は、毎日、朝起きて学校に行くようになったことです」

授業前の朝学習があるので、7時30分には学校につくように登校していたというのである。優斗さんによると家では相変わらずパソコンに向かいゲームをしていたが、学校のカリキュラムが放課後までみっちり組まれていて、帰宅する時間が遅いので以前よりも時間が減った。

「きっかけは英文法だった」勉強がわかるようになって、やる気継続

何かをきっかけに心機一転頑張ろうと思っても、その思いを長くキープできない人は山ほどいる。優斗さんはなぜ高校から頑張ろうという気持ちが持続したのか。

一つは勉強がわかるようになり、楽しみを感じるようになったこと。高校入学直後、苦手だった英語の授業でハッとしたことがあった。

「英語の文法で、名詞とか副詞とか品詞を意識して読むことを初めて知ったんです。『こうすれば意味がわかるんだ!』という驚きがあったんですね。わかりやすく教えてくれた先生に付いていきたいと思いました」

「君たちは勉強部に入ったと思え」教師や級友の刺激で東大志望に

もう一つは、クラスメートの存在だ。優斗さんのスーパー特進コースは、進学のためのカリキュラムがビッシリ組まれていた。7時限目の後は19時すぎまで自習時間。一般の部活動への入部は認められず、「君たちは勉強部に入ったと思え」と担任から言い渡されるほどだった。

「あいつはすごい。しっかりしてて、人間ができてる。おれもちゃんとしないと」

高校1年生の優斗さんは同じ特進コースのクラスメートを見て、そう思った。

「自分は課題があっても期限ぎりぎりにあわててやるタイプ。面倒だし、自分はそれでいいとずっと思ってきました。高校でできた新しい友達が、先を見て行動する子だった。京都大学を目指していて成績もいい。LINEでやりとりしていて『あの課題やった?』みたいな話になったときに、向こうはとっくに済ませ、自分はまったく手をつけていない状況が多くて恥ずかしくなったんです」

中学のときもそうした子はいたのかもしれないが、気になることはなかった。高校生になり、優斗さんが将来に向けて頑張ろうという覚悟ができたからこそ、頑張っているクラスメートがまぶしく見えたのかもしれない。勉強に対する姿勢が変わっていった。

©︎Norifusa Mita/Cork

そして優斗さんの「第1のゴール」が東大になったのは、高校1年生の初冬だった。成績や勉強に向かう姿勢を見ていた教師が、「東大を目指してみないか」と提案してきたのである。一発逆転のギアが入った瞬間だった。

「東大のことを調べてみたら、僕が学びたい航空系の学科があるし、日本で一番の大学だから目指してみたいと思いました。それに、通っていた高校から東大合格者はまだ一人も出ていなかったので、初の東大生になって偉そうな顔をしてやろうとも目論んでました(笑)」(優斗さん)

高校3年の10月、自らネットゲームを封印しパソコンを親に預けた

優斗さんが籍を置くスーパー特進コースは前倒しで授業が進められ、高校2年生からは受験シフトになる。学年が上がるごとに、勉強は厳しくなった。その厳しさを物語るのがクラスの人数の変化だ。入学当初は40人いたクラスメートは、卒業時には30人に減っていた。脱落者が次々出るくらいハードだったのである。

「でも、僕の場合、苦という感じではなかったです。周りの友達もやっていると思うと励みになりました」(優斗さん)

高校2年生以降、成績は学年1位になった。試験日が近づくにつれ、勉強に向かう気持ちが高まった。そして高校3年生の10月、優斗さんはとうとう自らネットゲームを封印した。パソコンを親に預けたのだ。

「そこにゲームがあるのにやらないのはしんどいけれど、何もなければあきらめがつく」(優斗さん)

ゲームのない環境を自らつくり、コツコツと勉強して東大を目指す。3年前の姿からは想像できない大激変である。

こうして迎えた最初の東大入試はわずかに力が及ばず、浪人することになった。浪人生活も、ひと時たりとも気を緩めなかった。朝8時には起きて予備校に行き、閉館する夜の9時まで机に向かう。帰宅後、夕食を済ませてお風呂に入ったら、12時には就寝。朝までゲームをしていた頃が嘘のようである。2回目の挑戦で堂々合格をもぎ取った。

©︎Norifusa Mita/Cork

「お母さんが勧めてくれた高校に行ったから東大生になれた」

そんな優斗さんがしみじみと言う。

「ターニングポイントは高校選びに成功したことです。僕は周りの友達と一緒に勉強する環境に置かれることが大事だった。毎日朝から晩まで勉強するような学校が合っていたんです。お母さんが勧めてくれた高校に行っていなかったら、東大生になることはできなかったと思います」

紋子さんは見放すことは全く考えなかったという。

「パイロットの夢をかなえるために頑張ってほしいという気持ちはありました。小学校のときも『勉強しなさい』『復習しなさい』とよく言っていました。優斗に対してできて当然という気持ちもあって、プレッシャーも与えていたと思います。昼夜逆転になったしまったときも小言を言っていましたね。口うるさく思われているだろうなと思っていたのですが、感謝してくれているなんて……」(紋子さん)

母の言葉に時には反抗もしたが、自分を気にかけているという愛情が伝わっていたのだ。

中学のとき思い切って、パソコンやゲーム機器を取り上げてしまう手もあっただろう。だが、紋子さんはそこまで強行する気にはならなかった。パソコンを使いこなせるのは悪いことではない。大好きなゲームの世界から得るものだってあるはずだ。第一、取り上げて隠したところで、息子なら容易に探し出してしまうと思っていたそうだ。

将来、もし、優斗さんがコックピットに座る日がきたら、その飛行機に両親を乗せてあげるのが最高の恩返しだろう。

ドラゴン桜「一発逆転」プロジェクト&東大カルペ・ディエム
本書は、『ドラゴン桜2』の編集を行うコルクと、同作品の編集に携わりながら教育格差への取り組みを行う東大の学生団体「カルペ・ディエム」の代表・西岡壱誠、編集者である岡崎拓実を中心に企画。「だれでも人生は逆転できる」という理念に共感した家庭教育誌『プレジデントファミリー』により制作された。恵まれた環境などがない中で東大に合格した学生を取材し、「一発逆転」合格の法則を研究する共同プロジェクトである。

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