東京2020大会に出場する、もしくは出場を目指すアスリートの中には、競技者とは別のキャリアを築く選手がいる。自転車競技(トラック)で東京2020大会、日本代表に内定している脇本雄太もその1人だ。自転車競技ナショナルチームの一員として、国際大会に出場する一方、公営競技の競輪選手として日本各地のレースを転戦する。自転車に人生を懸ける脇本の生き方に迫った。
運命を変えた友人の誘い
「ケイリン」と「競輪」。同じ読み方が示すとおり、ともに自転車を使った競技だ。1948年に福岡県で産声を上げた公営競技の「競輪」は、のちにスポーツの自転車競技にも取り入れられ、「ケイリン」として世界選手権でも開催されるようになる。さらにシドニー2000大会からはオリンピック種目に採用された。
現在、その2つの「ケイリン/競輪」に挑んでいるのが脇本雄太だ。ケイリンでは2020年の世界選手権で銀メダルを獲得するなど、実力は世界トップレベル。競輪においても、トップ選手の一人に数えられるなど、「輪界」を代表する選手だ。そんな脇本が自転車競技と出会ったのは、高校生のころだった。
「僕は小・中学校と運動をしていたわけではありません。同じ高校に入った友人がいるのですが、その人は自転車が大好きで、『一緒にやってみないか』と誘われたことから始めました」
脇本は理科の実験に興味があったことから、中学校時代は科学部に所属し、高校も就職を見据えて、工業系の福井県立科学技術高等学校へと進んだ。それだけに「将来、スポーツ選手になるという考えは全くなかったですね。友人の一声が人生を変えたと思います」と、振り返る。
母の「世界一を目指してみない?」の一言で
競技を始めた当初は、体育会系独特の上下関係に戸惑ったが、メキメキと力をつけていった。高校3年生のときには、国民体育大会の少年1kmタイムトライアルを連覇。そのとき、母からかけられた言葉が、脇本の運命を変える。
「日本一になったなら、世界一を目指してみない?」
この一言をきっかけに、自転車競技でオリンピック出場という目標が定まった。高校卒業後、日本競輪学校(現:日本競輪選手養成所)へ入学。競輪選手をしながら大舞台を目指す道もあると知っての決断だった。1年間の学校生活を経て、2008年7月に地元福井県でのレースでデビューを飾る。そのときのことは、今でも覚えているという。
「競輪選手としての活動の難しさを感じました。それまで自転車競技のタイムトライアルしかやっておらず、実際に競輪を味わったとき、9人で走ることの難しさが表に出たのかなと思っています。デビュー戦は勝利したものの、かなり期待されていたので、ものすごく緊張しました。その中で1着が取れて『ほっとした』という感じでした」
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