どの世界でも、コミュニケーションや相互理解というのは難しいものですが、殊のほか、学校教育の世界ではそうなのかもしれません。
わたしは教育関係の本を書いたり、教職員向けに研修をしたりしていますが、先生たちから、わたしのような外部の者(ヨソ者)が寄せられるコメントのなかには、次のようなものもあります。
●「学校現場にいないくせに(あるいは、現場で働いた経験がないのに)、偉そうなことを言うな。」
●「この人は現場経験がないから、分かっていないんだ。」
●「じゃあ、やってみろ!」 など
似た視線あるいは反発は、文部科学省や教育委員会等にも度々向けられるのではないかと思います。
あるいは、同じ学校のなかでも、教員以外のスタッフ(例:学校事務職員、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、ICT支援員)に対して、「あなたには、このことは分からない(≒学級担任であるわたしが一番よく分っている)」というニュアンスの話をされたことがある方もいる、と聞きます。
こうした批判なり反発について、「確かにそうだなあ」と共感できる部分も、わたしにはあります。妹尾が見えていないことや配慮が足りないこと、現場ならではのご苦労などはたくさんあるからです。それに、メディアも含めて外部から、とやかく評論されて「もううんざり」という気持ちの先生たちがいることも理解できます。
同時に、「本当にそうなのかな」、「その発想のままでいいのかな」と思うところもあります。きょうはこの問題について掘り下げてみたいと思います。
■あなたも、わたしも知っている「現場」はごく狭い
読者のみなさんはどうお考えになりますか?
わたしの場合、ひっかかる部分はどこだろうと考えてみると、少なくとも3つの疑問があると気づきました。
第一に、教師がいう「現場」はご自身が経験した、ごく狭い世界のことを指していることが多いように思います。
各学校や職場特有の問題や背景は多々ありますから、その「現場」にいないと見えてこないものも多いだろうとは思います。なにぶん全国で小学校、中学校、高校、特別支援学校等で約3万6千校もあり、教員数は約100万人もいるのです。一概に言えないことだらけです。もちろん、この記事も、すべての学校の先生はこうだ、などと言うつもりはありません。
それだけ様々な「現場」があるわけですが、ある先生が「現場を知っている」とおっしゃっている「現場」とは、いったい、どこを指すのでしょうか?
ひとつの職場にいるのは数年という人が大半ですし(公立学校の場合)、あるいはもっと広げて「学校現場」という意味で捉えても、ひとりの教師が経験している「現場」はたかだか数校、多くても十数校でしょう。
その経験が授業や児童・生徒理解、学校運営などの実践、実務におおいに役立つというシーンは多いでしょうし、人は経験から学ぶということは大きいのも事実ですが、限れられた「現場」経験では通用しないシーンもあるはずです。
なのに、自身の限られた経験を過大評価してはいないだろうか、という疑問が浮かびます。
「オレが知っていること(現場の知見等)が一番」という前提から物事を捉えるのではなく、「自分の知っている世界はごく狭い」というほうが妥当なんじゃないかと思うのです。
■経験していないことは、深く分らないのか?
第二に、「現場にいないヤツが言うな」、「現場経験がないのに」という言葉の裏には、「経験していないと、深いところは理解できない」という前提があるように思いますが、この前提は果たして妥当でしょうか。
たとえば、理科の先生は、宇宙のことや深海生物のことを子どもたちに教えているかもしれませんが、実際に宇宙に行ったことがある人や深海調査をやったことがある人はほとんど皆無でしょう。物理学者や生物学者も同様です。で、「現場を知らないヤツが言うな」となっては、学問も教育もずいぶんと狭いものになってしまいます。
経験が学びを深めることは多々ありますが、「経験がないから分らない」と捉えるのは狭い見識だと思います。
むしろ、経験が固定観念につながり、学習の邪魔をするケースもあります。たとえば、前回の記事でも書きましたが、肌着の色を指定するなど、必要性が怪しい、理不尽とも思える校則がいまだ残っている学校があるのは、学校文化に染まり、教員という同質性の高い集団で過ごす時間が長いために、疑うこと、メタ認知が弱くなっているせいかもしれません(そういう学校ばかりではなく、校則等を見直している例もありますが)。
「学校の先生は社会人経験が乏しいから、学校の”常識”が世間の”非常識”になるのだ」とおっしゃる人もいます。が、わたしは、これもちょっと違うんじゃないかと思います。ふつうのビジネスパーソンだって、自分の会社以外のことをどこまで知っているかと言われれば、そう自信のある人は多くないはずです。『半沢直樹』はドラマ、小説ではありますが、あそこで描かれているように、その会社や業界特有の思考や癖、文化というのはあり、多くの人が「井の中の蛙」な部分はあると思います。
公立学校の場合、潰れること、市場で淘汰される心配もほぼありませんし、児童生徒を相手にしていますから、異論や批判を出してくれる人が周りにあまりいないので(たまにクレームは来ますが)、自分たちの常識や行いを振り返る、見つめなおすという機会が少ないのかもしれません。
■他人から学ぼうとしない教師たち?
第三に、「現場にいないヤツが言うな」といった反応のなかには、学習することを止めてしまっている部分が見え隠れしています。もっと厳しく申し上げると、やや思考停止状態にあるのではないか、と思います。
とはいえ、わたしも偉そうなことを言うつもりはありません(ここまでの文章で、じゅうぶん偉そうに見えているかもしれませんが・・・)。自分が研修などを受講しているとき「この講師の話はつまらないな、机上の空論じゃないか」といった思いになることはあります。そういうときは、講師の話はほとんど入って来なくなります。お店でたとえると、シャッターをガラガラと下ろしてしまっている状態ですね。こうなると、たとえ2時間研修を受けていても、ほとんど得られるものはない、学んでいない状態になります。
同様に、「外部の講師がわたしたちの大変な現場の実状を分かるわけがない」、「文科省や教育委員会は、学校現場のことを考えていない」といった前提、思い込みでいると、その人がいくら有益なことを言っても、ほとんどアタマに入ってこないでしょう。
それでは、もったいないのではないでしょうか。本当につまらない、役立たないケースもあるでしょうが、たまには役立つ情報もあるかもしれませんし、すぐに役立たなくてもヒントになることや考えさせられることもあるかもしれないのに。
つまり、学校の先生のなかには、子どもたちにさまざまなことから学ぶことを推奨する、あるいは推進する立場であるにもかかわらず、ご自身は、他人から学ぼうとしていない人もいるのではないか、そんな疑問が浮かびます。
■「ジョハリの窓」から考える
「ジョハリの窓」という考え方は有名ですね。自分は知っているが、他人は分かっていないこと(「秘密の窓」)は多々あるので、そういう意味では「現場を知らないくせに」という言葉は真実の一端を突いていますが、自分は知らないが、他人は分かっていること(「盲点の窓」)もあります。
※図はウィキペディアより
似た話は、たとえば、経営学者と経営者(社長ら)にも言えます。
経営者のなかには、「現場経験の乏しい学者先生に何が分かるんだ!?」と突き放して、経営学者の助言や書籍、論文などは役立たない、と端から決め付けている人もいます。一方、「経営学者からは、自分の知らないことや気づかないことを学ぶことができる」と捉える経営者もいます。どちらの視野が広いでしょうか?
現場にいようがいまいが、あるいはどんな経験をしていようが、していまいが、他人の指摘やフィードバックから、自分の知識や視野を広げたい、なるべく学びに貪欲でいたいと、わたしは考えていますが、読者のみなさんはいかがでしょうか?
要するに、以上の3つの疑問からわたしが申し上げたいことは、「現場にいないヤツが言うな」と突き放すのではなく、お互いに知っていることや気づいていることをもっと公開して、交換して、自分の知識や情報を広げたらいいんじゃないか、ということです。
学校の先生は「学び」のプロであるはずですから、期待しています。
※この原稿は月刊『プリンシパル』への寄稿文をもとに、加筆修正してアップしました。
(参考文献)
妹尾昌俊『教師と学校の失敗学:なぜ変化に対応できないのか』
妹尾昌俊『学校をおもしろくする思考法:卓越した企業の失敗と成功に学ぶ』
◎妹尾の記事一覧
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