40年ぶりの「精神疾患教育」高校からでは遅い訳 | 東洋経済education×ICT – 東洋経済オンライン

基本問題

精神疾患は、がん・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病に並ぶ5大疾病の1つだ。厚生労働省の調査によれば精神疾患で医療機関にかかる患者数は近年増加しており、2017年に400万人を超えた。文部科学省の調査では19年度に精神疾患で休職した教職員は5478人の過去最多となるほか、若年での発症が多いなど教育現場でも身近な病気といえる。一方、長らく精神疾患は学校の授業で扱われず、22年度から高校の保健体育の授業において約40年ぶりに復活する。その背景と、当事者である子どもたちの現状や教育現場の課題について取材した。

なぜ「精神疾患教育」が復活するのか

さかのぼること約40年前、1978年告示の高校の学習指導要領から精神疾患の記述が消えた。東京大学大学院 教育学研究科 身体教育学コース 健康教育学分野 教授の佐々木司氏によれば、「ゆとり教育」がきっかけだったという。

「授業時間と学習内容を減らすために、学習指導要領から削られたのです。ただ、それまで授業で教えていた内容も、当時は旧優生保護法(※)の時代で『精神疾患は危険』という認識が強く、決して十分と言えるものではありませんでした」

※1948年に「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的に制定された法律。96年に「母体保護法」に改正され、障害者差別に当たる部分などが削除された

佐々木司(ささき・つかさ)


東京大学大学院 教育学研究科 身体教育学コース 健康教育学分野 教授。東京大学医学部医学科卒業後、同附属病院にて研修。カナダのクラーク精神医学研究所留学、東京大学精神保健支援室教授(室長)などを経て現職。日本不安症学会理事長、日本学校保健学会常任理事を兼務


(写真:佐々木氏提供)

学習指導要領の改訂により、22年度から高校の保健体育で「精神疾患の予防と回復」を学ぶことになった背景については、次のように説明する。

「昔は精神疾患イコール統合失調症と捉えられていました。しかし、近年では精神疾患も、うつ病やパニック症などさまざまであることを多くの人が知り、精神科を受診する人も増えるなど社会での認識が変わってきました。

また、この20年間で、精神疾患について子どもに教えるプログラムが国内外で開発されてきたほか、疫学研究も進みました。精神疾患全体では発症年齢のピークが10代半ば以前にあることなどがわかってきたのです。

そこで研究者や教育者たちが、次の学習指導要領改訂のタイミングを精神疾患の授業復活のチャンスと捉え、文部科学省へ働きかけたわけです」

その結果、今回の高校の学習指導要領は、保健体育において具体的にうつ病、統合失調症、不安症、摂食障害を適宜取り上げ、精神疾患は誰もがかかりうることや、若年で発症する疾患が多いことなどに触れるほか、心身の不調の早期発見・治療・支援の開始によって回復する可能性が高まること、精神疾患は偏見や差別の対象ではないことなどを理解できるよう指導する内容となった。

偏見や差別の解消には「教員への教育」が重要

精神疾患教育において最も重要なことは、「子どもたちが精神疾患について知り、自分あるいは周りの人の心身の不調に気づくことはもちろん、不調の際はきちんと『助けて』と援助希求行動を取れるようになること」だと佐々木氏は説き、こう続ける。

「問題は、子どもに助けを求められた人がきちんと相談に乗り、医療を含む適切な対応につなげられるかどうか。学校側は、援助希求に応えられる体制があることを子どもたちに示さなければなりません。

そのためには教員教育をしっかり行い、保健体育の先生だけでなく、担任や養護教諭など、学校全体でこの問題に対応できるようにすること。これが今後、精神疾患教育の実を上げるために不可欠です。

精神疾患について学ぶことは、教員自身のメンタル向上にもつながります。そういった観点からも、教員は理解を深める必要があるでしょう」

実際、子どもと教員、それぞれに対する効果の高い教育を開発・実証する取り組みも始まっている。20年11月、東京大学と埼玉県教育委員会は「学校におけるメンタルヘルスリテラシーの向上に向けた教育の充実」に関する連携協定を結んだ。

「子どもたちのメンタルヘルス」に関する研修用動画はわかりやすさを重視してアニメを活用している


(写真:佐々木氏提供)

この協定に基づき、同大健康教育学研究室は21年度から3年計画で中学校8校、高校5校の研究推進校で教育・研修プログラムの試行と効果の分析を行う。まずは教員を対象に、佐々木氏による「子どもたちのメンタルヘルス」に関する研修用動画の配信やメンタルヘルス理解に関する実態調査などに取り組み、次の段階で生徒教育を行っていく。よりよい教育のあり方についてエビデンスが得られれば、全県に広げる予定だ。ただ、佐々木氏はこう考えている。

「精神疾患の発症年齢の低さを考えれば、義務教育期間から精神疾患教育を始めるべき。小学校高学年ごろから発達に応じた教え方をしていくことが大切だと思います」

当事者の親が語る深刻な現状の数々

当事者の親の立場から小中学生に対する精神疾患教育の必要性を訴える人たちもいる。「義務教育で精神疾患を教えて偏見を無くしてほしい」という署名活動を行い、21年3月にその要望書と約5万5000人分の署名を文科省に提出した「シルバーリボンの会」代表、森野民子氏もその1人だ。

21年3月19日、シルバーリボンの会は、文科省に要望書と署名を提出した


(写真:森野氏提供)

森野氏の息子さんは17歳で統合失調症を発症した。森野氏は当時、看護師として働いていたが、「ある程度精神疾患についての知識がある自分でさえ、偏見があった」と振り返る。当初2年くらいは自身の育て方のせいだと思い込み、自分を責め続けた。周囲に話すこともできなかった。

しかし、精神疾患について学ぶうちに偏見はなくなっていったという。要望書にも盛り込んだが、とくに以下の内容については多くの人が知る必要があると森野氏は考えている。

・心の弱さによるものではなく脳機能の病気であること


・親の育て方や子どもが悪いわけではないこと


・原因不明で誰もが発病する可能性があること


・孤独、孤立、不安、不眠、過労が再発や再燃のリスクを高めること


・適切な治療と環境によってその人らしく生活することが可能なこと

22年度からやっと精神疾患について高校で教えるようになると知ったときは、自身の子ども時代を含め長い間授業で扱われなかったことに驚くとともに、「高校からでは遅いのでは」と思ったという。統合失調症の発症は10代後半〜20代が多いといわれるが、森野氏が参加する「LINE家族会」の話ではもう少し早い発症が多い印象だったからだ。

「実際、LINE家族会で当事者の親の立場の方216名に対して行ったアンケート調査(回答者数161名)の結果では、前兆症状が表れたピークは13~15歳。義務教育期間に前兆症状が表れた人が54.1%、明らかな症状に苦しんでいる人が2割強おり、中には小学生のころに発症した人も。ますます精神疾患を義務教育化する必要性を感じました」

要望書提出後の文科省の反応は?

精神疾患についての知識が周知されていないことで起こる弊害は深刻だ。症状が出始めても、当事者も周囲も気づきにくいので対応が行き届かず、当事者が苦しむケースが多い。例えば森野氏の息子さんは、妄想や幻聴などの明らかな症状が出る前に学業成績が落ちていった。

「認知機能が衰えるのでそれも症状の1つなのですが、本人は勉強しても覚えられないわけですから相当つらかったはず。私も無知だったため『いつも勉強しているふりをしているのかな』と疑っていました」

シルバーリボンの会のほかのメンバーも、こう話す。

「私の息子は小学校3年生で『突然人の声が落ちたり顔が変わったりして怖い』と言い始め、当時所属していたスポーツチームで選手に抜擢された際に辞退してしまいました。私もコーチも疑問に思い、夫は積極性に欠けると叱りましたが、本人は怖くて仕方なかったのだと思います。私たちの無知が息子を傷つけてしまいました」

中学で明らかな症状が出たため病院に通い始めたが、薬は処方されるものの病名を告知されるまで6年以上かかり、不安な日々を過ごしたという。

「私自身も偏見があって受け止めるまでに時間がかかりました。ようやく人に話せるようになっても周囲からは理解が得られず、医師からも『人に話さないほうがいい』と言われてしまって。わが家に合う家族会に巡り合うまで、10年以上もの間、暗闇の中をさまようような時間を過ごしました」

偏見の中、当事者と家族は孤立し、孤独や不安を抱えながら生きている。森野氏もさまざまな場面で苦しんできたが、「とくに子どもが生活の大半を過ごす学校が、病気を理解したうえでの対応ができていないことが問題だと思っています」と話す。

精神疾患は早期治療・早期発見が大切だが、学校側に受け入れ体制が整っていないため医療機関になかなかつながることができないケースは多く、不登校になったり、転校を余儀なくされたりする子どももいるという。教育センターやスクールカウンセラーに1年半ほど相談し続けたもののらちが明かず、保健師に相談してやっと受診できた例もある。

また、森野氏は教員の知識や理解の不足による悪影響についても危惧する。

「先生が統合失調症を怖い病気であるかのように子どもたちに伝えたことで、大きな不安を抱えることになった保護者もいます。先生が誤った認識に基づく発言をしてクラスの子どもたちが偏見を持つようになった場合、精神疾患の親を持つ子どもはどう感じるでしょうか。

例えば今、クラスに2~3人のヤングケアラーがいるといわれますが、世話をしている家族が精神疾患であることも少なくありません。彼らが困ったことがあっても、助けてと言えなくなってしまいます」

また、昨今子どもの自殺が増えているが、「精神疾患になると脳の制御ができなくなり自殺につながる場合があります。精神疾患への理解が進むことは自殺防止にもつながります」と強調する。

こうしたさまざまな現状から、要望書には「子ども・保護者・教員が、統合失調症をはじめとする精神疾患について正しく学べる機会を、小学校から保障してください」とつづった。要望書提出後の4月下旬、森野氏は文科省からメールを通じ、教員研修について次の回答を得た。

「令和3年度においては健康教育に関する指導者を養成する中央研修において、小中高の校種を問わず受講者が精神疾患の指導に関する講義を受ける時間を設けることとしている」

メール内には「学習指導要領の改訂はじめ着実に進めているところで、向いている方向は同じ」と考えていることや、「今後の授業やそれを支える教員研修も、更なる改善が進められる領域であると認識している」との言葉もあったという。

文科省も認識しているように、精神疾患教育においてまず重要なのは教員のリテラシーの向上だ。しかし、子どもの精神疾患への対応は、学校に丸投げすれば済む話ではない。併せて、医療など外部の関連機関が学校と連携し、当事者である子どもたちやその家族を支える仕組みも構築していく必要があるだろう。

(注記のない写真はiStock)

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