結党100年を迎える中国共産党: 言葉で日中をつないだ中国知識人の留学体験 – Nippon.com

花のつくりとはたらき

『日漢辞典』の誕生



1959年に日本で出版された『日漢辞典』。「編者のことば」には、金田一京助監修『明解国語辞典』、新村出編『広辞苑』、時枝誠記編『例解国語辞典』などを参考に編纂したと記されている。(筆者撮影)

1959年に中国・商務印書館から刊行された『日漢辞典』は、中華人民共和国初の日本語―中国語辞典として、日中国交回復までに中国国内だけで50万部以上も売れた。日本や香港でも刊行されたこの辞典の編纂にあたったのは、日本留学経験をもつ北京外貿易学院・北京大学の中国人日本語教師たちであり、非常に高い日本語の素養を身につけた人びとだった。当時の情勢を考えると、採録する言葉に政治的偏りが生じるのは致し方のないことであったが、中国人日本語教師たちは日本から『広辞苑』を取り寄せたり、日本の新聞から用例を採ったりして、日本人の生活に根差した言語感覚の辞書を作ろうと努めた。

編纂の中心人物が、北京外貿易学院の日本語教師・陳濤(1900-1989)である。奉天で生まれた彼は1920年に日本に留学し、26年に帰国するまで同時代の日本の社会主義運動と中国の革命運動の懸け橋となった。陳の日本留学体験と帰国後の数奇な人生から、20世紀の日本と中国の知られざるつながりをたどってみよう。

1920年代—東京で経験した国共合作と共産党入党

奉天の中学校を卒業後、国費留学生試験に合格して東京にやってきた陳は、慶應義塾大学経済学部に入学して留学生活をスタートさせた。1922年春頃に中国国民党の廖仲愷の演説を聞き政治的意識に目覚めると、秋には国民党に入党するが、多くの日本留学生は国民党に冷淡であったという。中国本国で第1次国共合作が成立すると、陳は中国共産党員の留学生とともに中国国民党東京支部を結成して本国との連絡にあたるとともに、ひとり「大東通信社」を作って日本の社会主義運動の最新情報を中国に発信していった。

そのような中、25年は、陳の革命家としての人生を決定づける一年となった。春には、日本国内の国民党支部を統一して中国国民党駐日総支部を組織するとともに、中華留日学生総会の主席にも就任して、政治運動と留学生運動の両方を担うこととなった。この時期の陳にとって一生忘れられない経験となったのが、多摩川の河原でのピクニックである。25年春のある土曜日の午後、高津正道ら日本人社会主義者と朝鮮人留学生、そして陳ら中国人留学生が集い、「ブルジョア階級打倒」を「叫んだ」というこのピクニックは、長く陳の記憶に留まり続けた。

上海の在華紡(日系資本の紡績工場)での日本人監督官への抗議行動に始まった5・30事件の一報に、東京の留学生や華僑はいち早く支援行動を起こした。陳が起草した「5・30惨案を日本人民に告げる書」は、国民党を介しての知己である宮崎龍介(孫文を支援した宮崎滔天の子)が推敲した。同時代のマルクス主義社会科学の影響を受けつつあった学生団体・東京帝国大学新人会はOBの宮崎を介して陳に5・30事件についての講演を依頼し、東大安田講堂で1000人の聴衆を前にした陳は、帝国主義への対抗を呼びかけたのであった。

さらに高津がつないだ日本人社会主義者と中国国民党駐日総支部と朝鮮人留学生との縁は、北伐への日本の軍事的介入の阻止を呼びかける対支非干渉運動へと展開していくことになったのである。

中国本国での国民党内の左右対立は国民党東京支部にも影響を及ぼした。国民党左派の立場をとる陳は、東京支部を離れて26年初めに帰国し、3月には共産党に入党した。この年冬には、広州の黄埔軍官学校に着任して政治教育を担当するが、27年4月の蔣介石の反共クーデター(4・12事件)により学校を離れ、広州での地下生活を余儀なくされた。このとき、地下で陳と面会した譚覚真は、陳のすすめで日本に脱出して早稲田大学に学んだ。その譚は、ノンフィクション作家・譚璐美の父でもある。

広州から武漢を経て漢口に脱出した陳は、周恩来から東北地区(満洲)の党活動に参加するよう指示を受けた。陳は27年8月1日、中国共産党による初めての武装蜂起となった南昌起義に参加したのち東北地区の間島(かんとう)に向かい、表向きは師範学校教員という立場で地下工作に従事した。しかし、29年初めには党組織が壊滅し、陳も間一髪、大連に脱出した。こうして共産党との連絡が切れた陳は、大連で独自の活動を続けていく。

大連から北京へ—傀儡政権の官吏として

大連での陳は、1908年に創刊された日本人経営の中国語新聞『泰東日報』に職を得た。副社長兼編集長の飯河道雄が退職すると、後任編集長として政治面を担当して、同紙を事実上「共産党の宣伝道具」として部数を順調に拡大させ、これまでの赤字を解消させた。『泰東日報』を拠点に大連での党組織設立を目指した陳は、31年2月に大連の日本領事館警察に逮捕され、3年間を裁判闘争に費やした。

35年、冀東(きとう)防共自治政府(※1)の小学校教科書の印刷・発行権を得た飯河は、東方印書館の経営に乗り出した。福島県出身の飯河は、1906年に東京高等師範学校を卒業して外国人教師として清に渡り、13年まで河南省で理科・数学・美術を教えた。その後満洲に移って、中国人向けの中等教育機関である南満中学堂・旅順二中で教鞭をとったのち、『泰東日報』に移ったようだ。教育者としての経験から教科書編纂に乗り出した飯河は旧知の陳に協力を求め、華北での中国共産党の活動の便宜を図ろうとした陳もこの機会を利用した。日本の傀儡(かいらい)政権下で中国共産党員の陳が担った教科書編纂事業は、共産党の地下活動の隠れみのにもなったのだ。

冀東防共自治政府が中華民国臨時政府に合流すると、陳らの教科書編纂事業も中華民国臨時政府のもとで行われることになり、陳は北平(北京)に移った。北平では、陳達民の変名で中華民国臨時政府教育部編審会副編纂に就任し、下中弥三郎が経営する新民印書館での教科書編纂事業に加わっている。下中が日本内地で経営していた平凡社は、1930年代前半に『大百科事典』全28巻の刊行で大成功を収めたものの、続く出版事業が失敗して35年には破産に追い込まれていた。

1910年代には教師として働き、教職員の運動を組織化した経験をもつ下中は、安定した収入が見込める教科書出版に目をつけて新民印書館を設立したのだ。満洲事変以降国家社会主義に転じた下中は、排日教科書の駆逐による排日思想の根絶を目指してもいた。中国共産党員でありながら官吏として傀儡政権が掲げる「新民主義」教育に従事した陳は、北京大学への法学院設置を要求するなど、中国の高等教育の発展にも尽力した。

42年、共産党員であることが密告されて国民党に逮捕された陳は、44年まで北平監獄で過ごすことになったが、獄中で『日華辞典』の草稿を著している。この草稿は失われたが、のちの『日漢辞典』への取り組みはすでに始まっていたのだ。

北京での日本語教師生活

1944年10月の釈放後は北平で地下活動に復帰し、日本の敗戦後に解放区へと脱出した陳は、48年に華北人民政府に参加し、49年の建国後は商業部外貿易部長を経て高級商業幹部学校委員に就任した。ただし、陳の党生活は紆余曲折を経た。50年6月に党籍が回復されるも、52年に始まった三反運動(※2)で華北人民政府時代の活動を問題視されて党籍を剥奪されたのだ。

54年に北京外貿易学院が開校すると同校での日本語教育にあたり、56年からは『日漢辞典』の編纂に献身した。41年に再婚した妻の張京先は日本人の母を持ち、38年に奈良女子高等師範学校を卒業している。彼女も北京外貿易学院で日本語を教え、のち北京大学に転じて長く日本語教育を担った。

『日漢辞典』の刊行前後から、核開発技術をめぐって中国とソ連の関係は悪化していた。1960年代に入ってソ連から中国に来ていた技術者や教育者たちが帰国すると、ロシア語に代わって日本語を専攻する学生が増えた。しかし陳らは、毛沢東思想を日本人に教えるための日本語教育という、当時としては至極当然の考え方に対しては批判的立場をとった。66年に文化大革命が始まると、日本留学経験のある中国知識人のほとんどが紅衛兵による激しい批判にさらされる。「紅衛兵は日本の憲兵よりたちが悪い」と語ったという陳は、73歳で下放先の河南省から北京への帰還を果たし、1982年に党籍も回復された。

81年、55年ぶりの訪日を果たした陳が誰よりも再会を望んだのは、下中弥三郎と高津正道だった。21年4月24日の日本共産党暫定中央執行委員会の成立(事実上の日本共産党の創立)に立ち会い、共産党を離れた後も左派の立場を守り、戦後は日本社会党代議士として日中日ソ国交回復国民会議にも関わった高津は、30年代に平凡社の『大百科事典』の編纂で糊口をしのぐ日々を送ったこともあって、下中とは縁が深かった。さらに高津の長女は平凡社に勤務し、長女の夫は日中貿易に携わってもいた。

2021年、日本共産党と中国共産党はともに創立100年を迎える。日本共産党の公式見解では共産党の創立記念日は1922年7月15日とされているが、これは1932年に獄中で裁判闘争を闘う中で戦後初期の日本共産党書記長となる徳田球一が創り出した党創立記念「神話」でしかない。日本共産党は、高津のような社会党左派の立場をとる人びとにとっても思想的原点なのであり、紆余曲折を経た日中共産党の100年間には、両共産党の公式見解に局限されないさまざまな人びとが、互いに縁を結んだのであった。

バナー写真:東京・湯島の麟祥院にある、関東大震災(1923年)で亡くなった中国人留学生の慰霊碑。留学生は明治期の1905年から08年ごろが最も多く、1万人前後いたといわれる。辛亥革命の成功で「ブーム」は下火になったが、23年ごろにも約2000人が日本で学んでいた(編集部撮影)

(※1) ^ 編集部注:1935年から39年まで、中国河北省に存在した政府。

(※2) ^ 編集部注:官僚主義・汚職・浪費の「三害」に反対する国民運動

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