夜間中学で夢や希望再び あす4/26開校、県立高知国際中学校夜間学級に10人入学 – 高知新聞

夜間中学で夢や希望再び-あす4/26開校、県立高知国際中学校夜間学級に10人入学-–-高知新聞 花のつくりとはたらき

 夜間中学(公立中学校夜間学級)が26日、高知市内で開校する。義務教育が十分に受けられなかった人らの学びの場。10人が入学し、学びを深める。

 夜間中は、戦後の混乱期に学校に通えなかった人▽不登校などで義務教育を受けられなかった人▽外国籍の人―らが対象。全国で設置が進んでおり現在、11都府県に35校ある。

 高知は36校目で、名称は「県立高知国際中学校夜間学級」(同市新本町2丁目)。高知江の口特別支援学校の旧校舎を活用する。1期生は20~60代の男性3人と女性7人(外国籍1人)で、授業時間は平日の午後5時半~9時。3年間での卒業を目指す。

 それぞれの夢、希望に向かって入学する3人に、話を聞いた。(石丸静香、宮崎順一)

「勉強と、人との出会いにワクワクする」と目を輝かせる西本恵美さん(南国市)

「勉強と、人との出会いにワクワクする」と目を輝かせる西本恵美さん(南国市)

「エジプトで発掘を」

西本恵美さん(49)南国市岡豊町蒲原


 考古学者になることが、幼い頃からの夢だった。古代エジプトの番組があればテレビにかじりつき、ピラミッドやスフィンクスの本を眺めてはワクワク。「いつかエジプトで遺跡を発掘したい」と思っていた。

 ただ、小学校の授業は、さっぱり分からなかった。席で、ぼーっとしていると授業が終わっていた。「自分はばかやと思うちょった。教室に一人、ぽつんとおる感じやった」

 親の希望で高校に進んだが、「時間の無駄」と中退。19歳で結婚し、3人の息子を授かった。離婚し、パートをしながら子育てに明け暮れた。

 ただ、日常生活で困ることもあった。スーパーでは、「『3割引き』ってなっちょっても、何となく安くなることしか分からん」。

 職場の同僚らと話そうにも、「私、言葉知らんがね。難しい言葉とか、政治の話とかされたら意味が分からんき会話に入れん」。

 宿題を教えて、と子どもに言われても、「答えを見いや」としか言えなかった。

 「どうせ私なんか」。劣等感を抱えたまま過ごしてきた。

 転機は5年ほど前。子育てが一段落し、「勉強したい」思いが、むくむくと湧いてきた。自分の時間が持てるようになったことに加え、交際している男性の影響も大きかった。「前向きな人。『いろんなことに挑戦しよう』と言ってくれて自分が変われた」

 誰にも言えなかった考古学者の夢を、口に出せるようになった。

 そんな時、夜間中のスタートを知り、「これだ!」と思った。

 「勉強して、段階踏んで。雑用でもいいから、いつかエジプトで発掘したい! 夜間中学に行くことで一歩近づいた感じ」

 同級生との出会いも楽しみ。「遠足もあるらしいし、もう一回青春できる。楽しみでたまらん。人生を楽しもう、やね」

 少女のような、とびきりの笑顔を見せた。

「今度は真面目な学生になりたい」と話す渡辺秀治さん(高知市)

「今度は真面目な学生になりたい」と話す渡辺秀治さん(高知市)

「就職の幅広げたい」

渡辺秀治さん(29)高知市瀬戸西町1丁目


 「あの時は勉強の必要性が分からんかった」。1人暮らしのアパートで淡々と話す。

 中学校には毎日通ったが、授業中は睡眠の時間。注意する教員には「何で俺らが英語を学ぶ必要がある。日本に来る外国人が日本語を学べばいい」と盾突いた。「体育館裏でたばこを吸ったり、先輩のバイクに乗ったり…。悪いことは一通り。先生には怒られてばかり」

 何とか高校に進んだが、2年の夏にミニバイクで通学中、事故に遭って2カ月入院。「学校も面白くない。もうええわ」と自主退学した。

 好きだった自動車整備の職に就いたが、事業所の経営が思わしくなく「やっぱり、最初に首になるよね」。

 以降も、「職業訓練学校で機械系を学ぼう」「専門学校へ行ってペット関連の仕事に」と思ったが、いずれも「中卒の壁」で入学の資格がなかった。

 ガソリンスタンドやコンビニのバイトで生活費を稼ぐ日々。常に「やり直したい」と思っていた。そんな時、テレビで夜間中のニュースを見た。

 「今なら勉強の意味も分かる。真面目に通って高校に進み、就職の幅を広げたい」

 物のないアパートの部屋には、本が1冊だけある。昨年ネットで購入した、図解入りの政治用語の解説書だ。スマートフォンをクリックした時の思いは、「変わらないと」。

 20代最後の春。未来に期待を膨らませている。

「卒業したら高校に行きたい」と話す女性(須崎市)

「卒業したら高校に行きたい」と話す女性(須崎市)

「勉強して孫の励みに」

南米移民の女性(69)須崎市


 1958年。親戚ら5家族と、旧幡多郡大方町からパラグアイに渡った。国が進める中南米への移住計画に、農家だった父親が乗った。女性は当時7歳で、「何も分からず付いて行きました」。

 船と汽車を乗り継ぎ、2カ月かけて「フラム移住地」に着いた。すでに小さな村ができており、最初は公民館で暮らした。大人たちは森を切り開き、赤土を耕した畑で大豆の栽培を始めた。

 食べ物に不自由はしなかったが、赤土は大嫌いだった。「晴れの日はほこって雨の日はどろどろ。何でこんなところに来たのか」。親に不満をぶつけた。

 現地の小学校に、日本移民の子と一緒に通った。ただ「勉強した記憶はほとんどない」。先生はパラグアイ人で授業はスペイン語。ほとんど理解ができなかった。「理科と音楽、英語も習ってないけど不満はなかった。みんな同じ境遇だったから」

 小学校を卒業後は家事を手伝い、後にアルゼンチンの美容院で働いた。日本に憧れ、20歳のころ単身で帰国。美容師の資格を取った。33歳で結婚。2人の子を育てた。

 夜間中に通うことを決めたのは、新型コロナウイルスの影響という。日帰り旅行や友人とのランチといった楽しみがことごとく奪われ、「暇になった。生活に張りが欲しくて」と、からり笑う。

 もちろん、根底には「十分に学べなかった分、勉強したい」思いがある。「勉強することで世界が広がるかも」と期待する。

 1期生の最年長。「大きな目標があるわけじゃない。ただ、私が中3の時、上の孫は中1。勉強しているおばあちゃんの姿を、励みにしてほしい」

 朗らかに語った。

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