天邪鬼がいっぱいいた昭和の学校 – 論座

花のつくりとはたらき

みんなが幸せで、持続可能な学校文化を創っていくために

住田昌治 横浜市立日枝小学校校長

 「論座」の連載も約束の期日を迎え、これで最終回になります。これまで小学校の一校長のたわいない記事を読んでいただきありがとうございました。最近は、PTA改革の様子がテレビで取り上げられたこともあり、その反応に対応することが多くなってきました。これからも、みんなが幸せで、持続可能な学校文化を創っていくために「変態度」を高めていきたいと思っています。

窮屈になっていった教育

言いたいことが言える、やりたいことがやれる学校にしよう

 さて、最終回は私の担任時代のことを書きます。それは、第1回目の記事が公開されたときに、読者の方から「住田先生の担任時代、ミドルリーダーの頃のことを知りたいので書いてください」というオーダーがあったからです。もう1年半経ったのですが、その間コロナ禍での学校の様子を伝えてきましたのでオーダーに応えられないまま今日まで来ました。しかし、ずっと気になっていましたので最後に書かせていただきます。

 先日、あるメディアの方のインタビューで、「住田さんは、担任時代も天邪鬼だったと聞きましたが、どんな感じだったのですか?」と質問されました。担任時代も? と言うことは今も? かとイラッとしましたが、その通りなので素直に質問について考えました。

 そもそも、「天邪鬼」というのは、故意に人に逆らう素直じゃないことや人のことです。ひねくれ者とも言いますね。よくよく考えてみると、私が担任をしていた昭和の頃には、そんな人が学校にはいっぱいいました。と言うことは、天邪鬼は私だけでなかったのです。素直に人の話を聞く人よりも、知らん顔したり、難癖付けたりする人が多かったと思います。一言で言うと変わり者、ひねくれ者が結構いたと思います。

 ですから、職員会議でもすんなり提案が通ることはなく、喧々囂々意見をぶつけ合っていました。それも、若かった私から見たらどうでもいいようなことばかりでした。どっちでもいいことを真面目な顔して真剣に何時間も議論していました。その間、若い人は黙って付き合っていました。私の初任校は、特にその傾向が強く、毎日学校に戦いに行っていたような気がします。職員室にも、教室にもです。多数派に合わせることもなく、一人一人がやりたいことをやっていたので、他の人やほかのクラスと同じことをするとか、進度を合わせるとか、全くしなかったと思います。

 しかし、その分、勝手に面白い実践をしている先生も多かったと思います。ですから、新採用の時から、自由にやりたいようにやり、誰からも咎められることはありませんでした。そう考えると、平成の教育は窮屈になっていきました。多数に合わせる、まわりに合わせる、横並びにする、人と違うことはできない、どんどん画一的で個性のない教育になっていきました。

 それを保護者も求めました。「隣のクラスは宿題をたくさん出してくれるのに、どうしてうちのクラスは少ないのですか!学力に差が付きます、もっと宿題を出してください。先生が楽してるんじゃないですか!」「前の先生は学級だよりをよく出してくれました。どうして先生は出さないのですか?ちゃんとやってください!」「ほかのクラスより教科書が遅れてませんか? どんどん、進めてください!」……

 学校でも、「先生のクラスだけ教え方が違うのは困る。みんな同じ教え方にしないと子どもも保護者も混乱するから合わせてください」「本校では掲示物を揃えることにしています。勝手にやらないでください」「机の並べ方や席替えの仕方も同じやり方にしてください。子どもが落ち着かなくなります」……。こんなこと私が担任していた頃には、言われたことありませんでした。

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