かつての教科書とは「ここ」が違う…大きく揺らぐ縄文時代のイメージ – ニュース・コラム – Y!ファイナンス – Yahoo!ファイナンス

花のつくりとはたらき

 火の発見とエネルギー革命、歴史を変えたビール・ワイン・蒸留酒、金・銀への欲望が世界をグローバル化した、石油に浮かぶ文明、ドラッグの魔力、化学兵器と核兵器…。化学は人類を大きく動かしている――。化学という学問の知的探求の営みを伝えると同時に、人間の夢や欲望を形にしてきた「化学」の実学として面白さを、著者の親切な文章と、図解、イラストも用いながら、やわらかく読者に届ける、白熱のサイエンスエンターテイメント『世界史は化学でできている』が発刊。発売たちまち1万部超の大重版となっている。

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● 縄文土器からわかること

 人類は火を使うようになると、食べ物を直接火で焼いたり、灼熱した石で焼いたりした。さらに土器を使って煮炊きするようになった。土器が発明されたのは、中国江西省では二万年前、極東ロシア、中国南部では一万五千年前のことだ。

 土器は、おもに非常に細かい粒の土である粘土からつくる。粘土は、水を加えて練り合わせると適当な粘り気を持ち、さまざまな形にすることができる。それを火で焼くと粘土粒子の一部が融け、粘土粒子どうしが接着して硬くなり土器ができあがるのだ。

 また、初期の土器は野焼き(露天火)で焼かれた。焼成温度は六〇〇~九〇〇℃だ。多くは平地または簡単なくぼ地で焼いたと推定される。土器で煮ると堅果類(ドングリ、クリ、クルミなど)や根茎類(ウバユリ、カタクリ、ワラビ、ヤマノイモなど)がやわらかくなり、アクを除くことができた(アク抜きは水さらしでも行われた)。煮ると肉もやわらかくなり、うま味が増したし、その後干し肉にもできた。

 そして、世界史上でも、土器によって煮炊き料理ができ、栄養豊富な煮汁まで摂取できるようになった、いわば「料理革命」で定住生活が始まり、その後、穀物を主役とした農耕革命へと進展していった。料理革命も農耕革命も土器なしでは不可能だったのである。

 ちなみに、日本の土器で現在までに知られるもっとも古いものは、青森県の大平山元Ⅰ遺跡から出土した一万六千五百年前の縄文土器だ。これは、炭素一四年代測定法によるものである。

 炭素という元素は陽子数六、中性子数六であわせて質量数一二のものが一般的だが、なかには中性子数が七や八のものもあり、なかでも中性子数八、つまり質量数一四の炭素は放射性壊変(放射線を出して他の元素に変わること)を起こす。

 この放射性壊変を起こす速度は実験で求めることができ、半分が放射性壊変を起こすまでには、炭素一四の半減期である五千七百三十年もの月日を必要とする。動植物が生きているときは炭素一四の取り入れ量と排出量は同じである。しかし、死んでしまうと、炭素一四は放射性壊変を起こして減少するだけになる。

 そこで、遺跡から出てきた動植物の遺骸の炭素一四の放射性壊変の結果を測定することで、元の状態からどれほどの時間がたったのかを計算することができるのだ。

● かつての教科書の記述との違い

 しかし、ここでかつて中学社会、高校日本史などで教えられた縄文時代の知識と大きくぶつかることになる。

 あなたは、縄文時代を「およそ一万二千年前から日本列島に住んでいた人類は、残された土器表面の縄による紋様にちなんで縄文人と呼ばれ、彼らの住んでいた時期は縄文時代と称されている。縄文時代はいまからおよそ一万二千年前から二千三百年ほど前の時期で、狩猟採集社会だった。弥生時代に稲作が始まって人々は定住生活をするようになった」と学んでこなかっただろうか。

 現在、縄文時代は、土器の製作技術にもとづいて、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六つの期間に大きく分けられている。考古学者のあいだで議論はあるが、もし時間的にもっとも長く考えた場合、土器の出現の一万六千五百年前を縄文時代の草創期と仮定するならば、いままでの説より四千年以上もさかのぼることになる。

 定住についても、南日本では約一万千年前に季節的な定住が始まり、一万~九千年ほど前には通年の定住が始まったようだ。その他の地域でも、縄文人は基本的に「定住」していったのだ。なお、現在の日本史教科書には、縄文時代に定住生活していたことが記述されている。

 日本最大級の縄文集落、三内丸山遺跡(約五千五百年前~四千年前の縄文時代前期中葉から中期末の集落跡)に見られるように、人々は栗の木を集落のまわりに植えており、栗の実を食用にし、木材は住居の柱にも利用していた。

 中期の遺跡ではヒスイ、コハク、黒曜石などが多数出土しているが、たとえばヒスイは新潟県糸魚川流域、コハクは千葉県の銚子や岩手県の久慈が原産地である。遠隔地との交易がなされていたのだ。また、エゴマ、ヒョウタン、ダイズ、アズキなどからコメまでの穀類までも栽培していたと見られる。

 土器をつくるときに粘土中にまぎれ込んだコクゾウムシ(コメ専門の害虫)やダイズの痕跡が多数見つかっている。

 おそらく、縄文人は植物の栽培に乗り出していたのだろう。ただし、「農耕」をしていたレベルかどうかには議論がある。コメの栽培などが状況証拠から確実視されていても、稲作が農耕の基本となる弥生時代とは区別して考える考古学者が大勢のようだ。

 今後、縄文時代の年代や縄文人の暮らしのイメージも、大きく変わっていくのかもしれない。

 (※本原稿は『世界史は化学でできている』からの抜粋です)

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左巻健男(さまき・たけお) 東京大学非常勤講師

元法政大学生命科学部環境応用化学科教授

『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。

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