「お父さんを殺して」4歳娘が背負った過酷人生 – ニュース・コラム – Y!ファイナンス – Yahoo!ファイナンス

花のつくりとはたらき

9:01 配信

 「4歳のとき、お母さんから『お父さんを殺してきて』と言われ、子どもながらに殺そうとしました」

 都内に住む女性から届いたメッセージは、こんなひやりとする一文で始まっていました。父から母へのDVを頻繁に見た幼少期のこと、父との別居後に母から受けた虐待や暴言、兄から受けた性被害のこと、中学校の途中から児童養護施設に入所したこと──。時系列でそれぞれ短く記されており、そこから彼女自身の感情は読み取れません。

 コロナがやや収束気味に見えた11月の週末、寧音さん(仮名)と待ち合わせた喫茶店は、ほぼ満席でした。やってきたのは美容師さんのような雰囲気の、おしゃれな20代の女性です。席につくと「緊張する……」と言って、周囲を見まわします。筆者も若い頃はこじゃれた喫茶店に入ると毎回緊張したもので、懐かしいような気持ちになりました。

 話し疲れたら無理しないでね、と伝えると、「自分の話というより、映画を見ているような感じなので大丈夫」と、笑って答えます。感情を切り離さずにいられないような経験を、たくさんしてきたのでしょう。寧音さんのこれまでの人生を、聞かせてもらいました。

■階段から落ちて動けなくなった母親を無視する父親

 小さいときは両親、兄と4人で暮らしていました。両親はしょっちゅうけんかをして、つかみ合いをしたり、怒鳴り合ったり。父親は子どもたちには優しかったのですが、母親にはひどいDV、モラハラを行っていました。

 「一度、母が階段から落ちちゃったことがあって。母は父に落とされたというし、父は落としていないというし、いまだに真相はわからないんですけれど。母は骨が折れて動けなくなっちゃって、でも父は救急車も呼ばないし、私たちにも『何もするな』と言う。私たちを連れて外食に行って、母のことは無視、みたいな感じでした」

 仮にもしそれが父親のせいではなかったとしても、階段から落ちて動けない妻を放置して外食に行くという行為は、完全に常軌を逸しています。寧音さんは父親に隠れて、けがをして臥せっている母親にヨーグルトをもっていったりしましたが、「ばれたら私も父に何をされるかわからない」という恐怖を感じていました。

 4歳のころには、こんなこともありました。ある朝起きて、キッチンに入ったところ、朝ごはんを作っていた母親から突然「ねえ、お父さん殺してきてちょうだい」と言われます。軽い口調でしたが、寧音さんは「ただならぬ空気」を感じ取り、そのまま父がいる部屋へ向かいました。「やらないと、(私が母に)やられる」と思ったのです。

 「まだお父さんは寝ていたので、お父さんの口に布団や枕を押し当てて。全部の体重をかけて、息をとめようとしたんですが、子どもなので全然そんな力もなく。お父さんも途中で起きて、私がいたずらをしているんだと思ったようです。で、『何しているんだよ』みたいに軽く言ったんですけれど、私は大泣きして『ごめん、ごめん』って謝って。お父さんからしたらなんで泣いているのかも、なんで謝っているのかもわからなかったと思います」

 台所に戻った寧音さんが「お父さん殺せなかった」と告げると、母親は「あ、そう」と答えたのみでした。以降、この件について母が口にすることはなかったといいます。

 4歳の女の子が父親を殺すなど無理なことは、母親は百も承知だったはずです。でもそれを寧音さんが、どれほど本気で実行せねばと思いつめたか。寧音さん自身はこれも「自分のことじゃない感じ」がするといい、取り乱すことなく話を続けるのでした。

■暴力は、弱い立場の寧音さんに連鎖した

 小学校に入る少し前、両親はようやく別居します。寧音さんは母親と兄と3人で暮らし始めましたが、すると今度は、母親から子どもたちへの暴力や暴言、ネグレクトがひどくなっていきました。

 「最初は母も(父と離れて)ほっとしたみたいで平和だったんですけれど、怒るときの度合いがだんだん、だんだんエスカレートしていって。殴る蹴るは当たり前だし、子どもが言うことを聞かないとか、思いどおりにならないとかになると、わーっと怒鳴りだしたり、ものを使って叩いたりして。もう、すごかったです」

 まるで母親が以前、父から受けていたDVの再現です。別居前の母親は「いつも机に突っ伏して、怒るエネルギーすらない感じ」だったのですが、ようやく怒る気力が戻ってきたのでしょうか。でも、その怒りをぶつける相手が子どもであっていいはずはありません。

 寧音さんはしかも、兄からも暴力をふるわれていました。兄も母から受けたような暴力を、自分よりも弱い寧音さんを相手に再現していたのです。さらに兄は小学校高学年になると、寝ている寧音さんの服を脱がせ、身体を触るようにもなっていました。

 「私が7歳のときから4年間くらいずっと、ほぼ毎晩という感じでした。私が5年生のころに一度、母が現場を見ているんですけれど、そのとき1回怒っただけでは何も変わらなくて。母親はクレーマー体質だったので、それを利用じゃないですけど、役所に『こうなるのは、もっと広い部屋の(公営住宅の)抽選に当たらないからだ!』って怒鳴り込んで。私も連れていかれて、フロアに響き渡るくらいの大声で『この子が兄から性被害にあっている』と言われて、もう恥ずかしくて恥ずかしくて。とにかく早く帰りたかった」

 役所も災難でしたが、寧音さんが受けた苦痛の比ではありません。

 性被害が終わったのは、寧音さんが小6のときでした。母親に面と向かって兄の行為を伝えたところ、「母もさすがにヤバいと思ったのか」児童相談所に相談したため、寧音さんは一時保護所に、兄は児童養護施設に入ることになったのです。

■施設から高校、大学に進学へ

 3カ月後、寧音さんは一時保護所から家に帰りましたが、兄はそのまま施設から戻りませんでした。「ターゲットが減った」ため、母親から寧音さんへの暴力はよりエスカレートしましたが、逃げ場はありません。児童相談所の人との面談はありましたが、もし母の虐待を告げれば、また一時保護所に入れられてしまいます。それは寧音さんにとって、最も避けたいことでした。

 「一時保護所が、私はすごく嫌だったので。先生とか職員の人とか、ものすごく怖かったんです。決まりも変に厳しいし、子ども同士もバチバチして告げ口をし合うし、学校にも全然通えない。私は学校が好きだったので、友達と会えないとか、そういうほうが嫌だったから、(母にされたことは)あまり具体的には言わなかったですね」

 しかし結局、寧音さんは中学2年の途中から、児童養護施設に入ることになりました。母親が当時付き合っていた男性の家に行ったきり、家に帰らなくなってしまったのです。児童相談所の職員に、一時保護所には行きたくないこと、いまの中学に通い続けたいことを訴えたところ、しばらくは近所の里親家庭にいられたのですが、その後はどうしても、別の区にある児童養護施設に行かざるをえませんでした。ですが幸い、それは「とてもいい施設だった」といいます。

 「最初のころは毎晩泣いて、『戻りたい、戻りたい』ってずっと言っていたんですけれど。転校した先の中学校では、ちょっといじめみたいなこともあったりして、本当になじめなくて。でも学年が変わってからは友達もできて、わりと楽しくやれるようになってきました。今も本当に感謝しているのが、施設の先生が教えるのもすごくうまくて。私、それまで理科や数学で0点とか2点とか取っていたんですけど、次のテストで70点くらいになったんです。それはすごい楽しかった。勉強楽しいじゃん、ってなりました」

 それはおそらく教えていた先生たちも、寧音さんと同じかそれ以上にうれしかったことでしょう。その後も「職員さんたちみんなが、私に勉強させよう、させようとしてくれた」おかげで、寧音さんは高校を出た後に大学に進学します。そして奨学金を7つ使い、かつバイトをかけもちして、最後まで通ったのでした。

 「いま思うと、あの時期に家を出られてよかったなって思います。もしあれより遅かったら高校にも行けてなかったかもしれない。あのタイミングが本当に、最後のチャンスだったのかもしれないなって」

■母と暮らすストレスに拍車をかけたコロナ禍の生活

 大学に入り、施設を出てからは一人暮らしを満喫してきた寧音さんですが、現在は再び母親と2人で暮らしているといいます。新卒で就職した会社は人間関係が悪く、転職した際に貯金がつきてしまったため、お金が貯まるまでの間、母のもとに身を寄せたのです。しかしやはり、母との生活は非常にストレスが大きいようです。

 「暴力はなくなったんですけれど、母は自分のしてほしいことを私にさせたい。だからたとえば、私が電気を消し忘れると『電気はちゃんと消してください』という貼り紙をしたり、『私はこうしてあげているけれど、あなたの態度は何?』みたいな長文の手紙が、家に帰ってくるとベッドの上に置かれていたりする。私はそれで眠れなくなったり、帰ってきても貼り紙が怖くて玄関を開けられなくなったりして」

 貼り紙や手紙──地味ながらも、じわじわと心を削られそうです。母親に何度も「やめてほしい」と伝え続けたところ、貼り紙はやっとなくなったそうですが、最近はコロナの影響で、またストレスが増しているといいます。

 「リモートワークになって母といる時間が増えたときはしんどかったです。1時間に1度くらい部屋をノックされて、『今、何をしているの?』とか聞かれて、そのたびに『仕事だよ』と答えるのが、嫌になっちゃって。それに母が入っている宗教への勧誘もしつこいし」

 早く母親と離れたほうがよさそうですが、お金が貯まるまでは、もうしばらく辛抱しなければならなそうです。今後は、友達とシェアハウスで暮らすことも考えているといいます。

 ただ幸いなことに、寧音さんにはつらいとき何でも話せる相手が、何人かいるといいます。友達や彼氏、施設の元職員さんが、寧音さんの話をいつも聞いてくれるのです。

 「本当にちょくちょく、その友達とかに話を聞いてもらって、『これ(母が)おかしいよね?  私、これ断っていいんだよね?』とか確認する作業をしています。『それはお母さんがおかしいよ、全然断っていいよ』みたいなことを言ってもらいながら、やっとここまで来た感じ。もしそういう支えになってくれる人たちがいなかったら、母に押し切られて宗教に入っちゃったりしたかもしれないなって」

 おかしいのは寧音さんでなく母親だということは、他人が見れば一目瞭然ですが、家族の中だとわからなくなりがちです。信頼できる人に客観視してもらうのは、とても必要なことでしょう。

■自分を認めながら、広い世界へ向かっていく

 「私、親から『産まなければよかった』とか言われたことがあるんです。そのときは、言われている自分を上から見ているような感覚で、何も感じなかった。それほどつらかったのだと思います。でも今は、生まれてこなければよかったとは全然思わないんです。

 もちろん私の過去のつらい体験は、絶対にないほうがよかったんですけれど、でもそれがあって今ここにいる、みたいな。私の場合、母は自分がしてきたことを何一つ覚えていないので、私が言わないと、全部なかったことになってしまう。それが嫌で、こうして人に話したい気持ちもあるんだと思います」

 寧音さんは今でも、昔母親から受けた暴言や暴力を夢に見るといいます。過去を語ることで彼女は、自分を否定せずに認めながら、より広い世界へ向かおうとしているのかもしれません。

 最近はコロナのせいで「いつも会えていた友達とあまり会えなくなったりして、落ち込んでしまう」と話していた寧音さん。彼女のような若い子たちが、友達と気軽に話せる状況が戻ってくるよう、せめてコロナが早く収束することを願います。

東洋経済オンライン

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最終更新:3/7(日) 10:31

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