19世紀のロンドンや江戸、「感染症」コレラは何が原因で流行したのか – ニュース・コラム – Y!ファイナンス – Yahoo!ファイナンス

19世紀のロンドンや江戸、「感染症」コレラは何が原因で流行したのか-–-ニュース・コラム-–-y!ファイナンス-–-yahoo!ファイナンス 花のつくりとはたらき

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● コレラが流行したロンドンで起こったこと

 コレラは、感染者の便で汚染された水や食物を口から摂ることによって感染する病気である。その原因菌のコレラ菌は一八八三年にロベルト・コッホ(一八四三~一九一〇)によって発見された。コレラ菌は、その毒素により激しい下痢や嘔吐を起こす。適切な治療をすれば死亡率は一一パーセントと低いが、そのまま治療しないと死亡率は五〇パーセントにもなり、重症の場合は、症状が現れて数時間後に死ぬこともある。

 コレラ菌などの病原菌が発見される以前、コレラに限らず病気は悪い空気(瘴気、ミアズマ)を吸うことで起こると考えられていた。ミアズマはギリシア語で「不純物」「汚染」「穢れ」の意味である。

 コレラは何度も大流行を起こし、多数の人々を死に至らしめた。世界的流行としては、第一次:一八一七~一八二三年、第二次:一八二六~一八三七年、第三次:一八四〇~一八六〇年、第四次:一八六三~一八七九年、第五次:一八八一~一八九六年、第六次:一八九九~一九二三年、第七次:一九六一~継続中の七回を数える。

 「コレラはミアズマで起こるのではない。水にふくまれる何かが原因である」ことを、一八五五年、麻酔学者のジョン・スノー(一八一三~一八五八)が明確に証明した。

 一八五〇年頃のロンドンでコレラの流行が起こっていたが、彼は水道を供給する会社によって、コレラによる死亡率が異なることに気がついた。汚染された水を供給する水道水(取水口が下流にあった)を飲んでいる家庭では、コレラの死亡率が高かったからだ。ミアズマ説では、このことを説明できない。

 スノーは、一八五四年にロンドンのブロード街でコレラが流行したとき、死者が出た家と、彼らがどこの水を飲んだかを一軒一軒訪ねて調べ、地図に書き込んだ。死者を黒点で表してその分布を分析すると、ほとんどの死者がブロード街の中央にある手押し井戸付近の住民であることがわかったのだ。井戸から離れている家でコレラにかかったのは、井戸の近くの学校に通っている子どもであったり、レストランやコーヒー店の客であったりして、いずれも井戸の水を飲んでいた。

 また、奇妙なことに、井戸の近くにある従業員七〇人のビール工場では、重症のコレラを発症した人はいなかった。調べてみると、工場の従業員は井戸の水は飲まずビールを飲んでいたのだ。そこで、汚染された井戸の使用を禁止にすると、コレラの流行は、ぴたりと止んだ。

 十九世紀のロンドンで起こった一連の経緯は、「疫学」的方法の重要性を示している。「疫学」的方法では、集団を観察し、病気になる人とならない人の生活環境や生活習慣などの差異を検討して要因を明らかにする。後年の調査によると、この井戸近くの肥料の汚水だめにコレラ患者の糞便が混入したこと、汚水だめと井戸が九〇センチメートルしか離れていないことがわかった。

● 伝染病が上下水道を発達させた

 中世末期まで、家庭の汚物は、道路の上または道路の中央の溝に流した。しかし、何度もペストやコレラの伝染病が流行し、その度に多数の人命が犠牲になった。

 そこで、十六世紀になってようやく、市民生活の衛生を保つことが重要視されるようになり、少しずつではあるが、小規模の上水道の工事が行われるようになった。一五八二年、ロンドン橋に水車で動くポンプを据えて配水したが、テムズ川は激しい船運のために汚濁しがちだった。

 十九世紀になると、蒸気ポンプ・排水用の鋳鉄管および浄水装置(砂による人工的ろ過)が発明され、水を処理してきれいにし、ポンプによって送水をする大規模な近代水道の条件が整ってきた。

 ヨーロッパ最初の公共給水は、一八三〇年、産業革命の先進国イギリスのロンドンで実施された。また、一八三一年のコレラ流行は、ロンドンの地下下水道を発達させた。しかし、せっかく下水道ができてもただ河川に放流するだけだった。そのため河川はますます汚れて、工業用水としても使用不能なものになりつつあった。一八六一~一八七五年にはテムズ川の両岸に川と平行の水路をつくって流したが、それでも下流の汚染は防げなかった。

 また、一八四八年のドイツのハンブルクに次いで、十九世紀後半からは、ドイツやフランスの都市でも下水道がつくられるようになった。下水を噴水のようにして「ろ過材」をまき、その表面にできる細菌の膜で汚物を分解する方法、あるいは、現在の下水処理場で行われている「活性汚泥法」(好気性微生物をふくんだ汚泥で有機物・無機物を分解する汚水処理の方法)が考案・改良されていった。

 なお、日本では、江戸時代に水道の建設が始まっている。江戸市民の生活用水を、小石川上水(一五九〇年、のちの神田上水)、玉川上水(一六五四年)などから給水。水源からの傾斜を利用する「自然流下方式」と呼ばれる設備が建設された。

 水を処理してきれいにし、ポンプによって送水をする近代水道が始まったのは、一八八七年からだ。その年の十月に、横浜で水道の給水を開始。その後、函館、長崎、大阪、東京、神戸と次々に給水が開始された。

 このように急速に水道が敷かれていった背景には、水系伝染病であるコレラの大流行がある。一八八二年、日本ではじめてコレラが発生する。これは第一次の世界的流行の影響であり、西日本から東海道にまで広がった。

 第二次の世界的流行を日本は免れたが、第三次の世界的流行が日本に襲いかかる。一八五八年から三年に及ぶ流行は、死者三万人を超え、攘夷思想にも大きな影響を与えたといわれている。一八五三年のペリー来航から、日本には外国船が次々と押し寄せた。多くの人々は、コレラは異国人がもたらした悪病と考えたのだ。そのため、異国人に対する排斥思想(攘夷思想)が高まっていった。歴史は政治思想によってのみ動くのではない。複合的な要因により、形づくられているのだ。

 また、コレラなどの疫病を退治するために、中部・関東地方では、秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを神様の使いである眷属として、憑き物(人にとりついて災いをなすとされる動物などの霊)落としに霊験あらたかな「眷属信仰」が盛んになった。

 その結果、憑き物落としに使うニホンオオカミの遺骸の獲得を目的とした捕殺が増えたことが絶滅の一因になったと考えられている(『続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える』加藤茂孝著、丸善出版)。

 現在では、改善されつつあるとはいえ、たとえばコレラ・チフス・赤痢などの病原菌をふくんだ水や、自然環境中に広く存在しているヒ素が基準以上にふくまれている水を飲まざるを得ないなど、いまだに世界には安全な水を飲めない人々がいる。

 二〇一七年時点でも、毎年五二万五〇〇〇人の五歳未満児が下痢によって命を落としている。トイレの不足など不衛生な環境と汚染された水が原因とされるが、水に関係した衛生状態の改善により、予防をすることができる。また、ヒ素で汚染された地下水の飲用による慢性ヒ素中毒は、インド・バングラデシュをはじめ、世界各地で発生している。

左巻健男(さまき・たけお) 東京大学非常勤講師

元法政大学生命科学部環境応用化学科教授

『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。

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