“スポーツマンNo.1”照英が語る青春時代と室伏広治との再会「ずっとシルバーメダリストでしたから」 – SPORTS BULL

“スポーツマンno.1”照英が語る青春時代と室伏広治との再会「ずっとシルバーメダリストでしたから」-–-sports-bull 基本問題

#2では照英さんのやり投との出会い、学生時代を振り返ります。モデルの世界、芸能界へ飛び込んだ理由、そしてキャスターとしてスポーツ界に舞い戻った照英さんに室伏広治氏がかけた言葉とは? 全3回の#2(

#1

#3

はこちら)

――照英さんが陸上を始めたきっかけは?

 陸上を始めたのは中学時代。野球を続けようと思っていたところに、陸上部の先生から「かけっこが速かったらしいな。陸上をやらないか」と誘われたのがきっかけでした。

 元やり投選手だった先生に走りもジャンプもやったほうがいいと、3種競技A(100m・走高跳・砲丸投)という混成競技を勧められ、やり投を教えてもらったのは中学校卒業前ぐらい。今となっては、私にやり投に必要な能力を身に付けさせたかったんだろうなと思います。

 高校はその先生の恩師がいる鴻巣高校に。高1から記録が出て、国体やインターハイ、ジュニアオリンピックなども経験させてもらいました。

――やり投には走力や跳躍力が欠かせないのですね。

 よく「走跳投」と言われますけど、やり投げは特にバネが重要。重いものを投げるというよりは、バチンと弾くイメージ。縮めたバネがビュンと跳ね上がるような瞬発力を持つ選手が強いと言われています。だから高校時代は小さかったり、痩せている人でもバネがある選手は記録を出せるんです。

 高校では砲丸投、円盤投も経験させてもらって、本格的にやり一本に絞ったのは大学から。もちろんオリンピックは夢でしたが、少し記録が足りなかったですね……。でも学生時代はそれなりの戦いができていたかなと思います。

――最高位は?

 2位ですね。私はずっとシルバーメダリストですから(笑)。大学時代のインカレでも、広島国体でも2位。その1番が先ほど話をした中京大の植(徹)選手です。彼がいなければ全部勝っていたかもしれません。

やり投界の底上げ、北口榛花はもっと飛ぶ

――現役時代のベストは?

「73m90」。現在の日本選手権に出ても、決勝には残れる数字じゃないかな。

 最近のやり投界も底上げされていますよね。2010年代に入ってから80m台を投げているのは新井涼平選手、村上幸史さん、大学時代に84m28を記録したディーン元気選手とたくさんいます。世界のレベルは高いですが(世界記録はチェコのヤン・ゼレズニーの98m48)ここ1、2年でも記録を出している選手もいて、とても楽しみです。

――女子では昨年、日本新記録(66m00)をマークした北口榛花選手もいますね。

 彼女も頑張ってますよね!  実際お会いしてお話をしたらすごく素朴な女の子。でもまだ荒削りな印象があります。自分が言うのもあれですけど、助走をもっと改善すれば絶対にもっともっと記録が出ますよ。70mに届くのではないでしょうか。

 やりを振り切る力、投げる力がついていっていないからあの助走スピードなだけで、もっとスピードが上がれば絶対に出ますね。他の投てき種目はパワーをつければある程度記録が伸びる。でもやり投は唯一走力が求められる種目なので、力だけじゃ飛ばないんです。

――専門的なお話を聞くと、なおさら室伏さんの記録はすごいですね(#1参照)

 彼がやり投げを本気でやったらすごかったでしょうね。大学時代はコウジがやり投に転向したら困るねとよく話していましたから。

ファッション誌で見たバキバキのモデル

――大学卒業後、モデルの道に進んでいます。陸上を続ける選択はなかったのですか?

 今から20年以上前は“プロ化”なんてそうそうない時代。陸上選手の基本は企業に就職させていただき、午前中は業務をこなして練習は午後。実績があっても待遇は決して恵まれてはいなかったですし、その環境下で記録を出し続けることは容易ではないんです。

 それでいて、25〜26歳までに記録が出せなかったら解雇もありえる世界。お誘いいただいた企業さんもありましたが、もしそうなったらお先真っ暗じゃないかと、シビアな世界を異様なほど冷静に見つめていました。保健体育の先生の資格も取り、そこに興味あることにチャレンジするという3つの選択肢を準備して大学4年を迎えていました。

――そこで選んだのがモデルの世界だったと。

 陸上をやっていたことを糧にできる仕事は何かなって考えていたんです。それに当時はスポーツ以外の時間はジャージは着ない!と、オフの日はカッコつけたりしていたので(笑)、ファッション誌をよく読んでいました。

 そこにカルバン・クラインやアルマーニの広告に載るバキバキのメンズモデルを見たんです。あのナオミ・キャンベルと一緒に仕事をしている!と驚いて。女性は何十億も稼いでる時代でしたが、当時はマークという世界一稼ぐメンズモデルがいて、業界トップになれば3億円ぐらい稼げる、と。

 陸上をやるよりはいい車に乗れる、お金持ちになれる近道かも、なんて浅はかな考えもありながら東京の事務所に履歴書を送りました。その時はまだ東海大に在籍していたので、私にとって就職活動のようなものでした。

――ということは、モデル活動は大学4年生から始めていた?

 そうです、そうです。陸上をやりながら、たまにオーディションに行って……。だから「あんまり大っぴらにポスターとかできないんです」と言ってました(笑)

「しがみついでもダメだと思った」

――陸上を辞めたのもそのタイミングですか?

 実は陸上への思いを簡単に捨てきれなかったので、大学卒業後に一度だけ実業団の大会に出ているんですよ。モデルのお仕事でいただいたお金を貯めながら、近所のスポーツショップに「名前だけ貸してください」と頭を下げてお願いしました。実業団の大会はスポンサーさえ見つかれば個人でも出場できるんです。「ファミリースポーツ」という名前で、ミズノさんに頼んでユニフォーム作ってもらったのが23歳のとき。陸上をやりながら、モデル業もやって、アルバイトもしていました。

――アルバイトも! 忙しい毎日でしたね。

 釣りが好きだったものですから、アルバイトは上州屋。でも、その系列のアウトドアグッズを扱うキャンプショップに回されてしまって。でも、そのおかげでキャンプもやるようになりました。釣りもキャンプも番組に関わらせてもらっているので、全てが今に繋がっています(笑) 

――陸上と線を引いたのはいつですか?

 モデルの仕事をもっと頑張ろうと東京に引っ越したタイミング。東海大のグラウンドを借りて練習していたこともあり、当時はまだ寮の近くに住んでいたんです。そこで陸上をスパッと切った。実業団の大会でもなかなか記録が出ませんでしたし、昔みたいにガンガン練習もできなかった。しがみついてもダメだと思ったんです。

室伏広治が見せてくれたメダル

――そこからモデル業も軌道に乗り、芸能界へ。『筋肉番付』や『スポーツマンNo.1決定戦』ではその身体能力を発揮されました。「ショットガンタッチ」で総合優勝を決めた後、号泣しながら「小指が僕を救ってくれました」というコメントは記憶に残っています。

 ありがとうございます! 嬉しいですね。あれからもう20年ぐらい経つのに今でも「当時、見ていました!」と声をかけていただけることが多いんです。中学時代の先生が「走りもジャンプもやっとけ」と言ってくれたおかげで総合1位になれました(笑)

――そこからキャスターのお仕事もされています。そこで室伏さんとも再会を果たしたそうですが。

 よく覚えているのは、カナダ・エドモントンで開催された世界陸上です。ちょうど『スポーツマンNo.1決定戦』で優勝した時ぐらいだったと思うんですけど、コウジとの関係もあったので現地のキャスターに選んでもらいました。

 スタジオの織田裕二さんに「エドモントンの照英さーん」と呼ばれて出てくる感じ(笑)。その大会で日本人初のメダルを獲得したコウジがマスコミの取材よりも先に、サブトラックにいた自分に銀メダルを見せに来てくれた。「テル、取ったよー!」って首にかけてくれたんです。「お前も『照英』という名前でTVに出て、認知されてよかったな」と。

 陸上を離れましたが、同志として思ってくれていたんだと思うとこみ上げるものがありました。アテネ五輪でも金メダルを記念したTシャツをもらいましたが、今でも大切に保管していますよ。

――室伏さんとは最近はお会いになりましたか?

 競技場で選手たちの取材をしていた時、スーツを着て颯爽と過ぎ去っていくコウジに「久しぶり!」と声をかけたぐらい。今や長官ですから気軽に電話できないですよ(笑)。

 コウジだけではないですが、一緒に戦った仲間や先輩たちが活躍していることは嬉しいです。キャスターとして参加させてもらっていると、監督になっている同級生たちに「スポーツ界に帰ってこれたんだな」と言われる。本当にありがたいです。

――現場に行くと、アスリートとしての思いが疼くのではないですか?

 そうですね。とある番組をきっかけにまた火がついちゃいました(笑)

【続きを見る!】#3 照英、45歳。全日本マスターズ優勝!再びアスリート魂に火がついた理由

◆室伏広治との出会いを語った#1も見る!

(「Number Ex」谷川良介 = 文)

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